地方都市の夕景

音楽と写真

March 2019

早いものでもう3月も終わりに近づいている。

何だかいつも早い早い言っているような気がして、年だなぁと思う。働き始めると人はこうなるのか。最早仕方ないのか。全然更新できていないままに春になってしまった。もっと更新のハードルを下げるためにサブのブログでも作ろうかとも思ったけれど、メインとサブを分けるほどPVがあるわけでもないので、これからはもっと気軽に適当に更新しようかと思う。ツイッターもインスタも流れていってしまうし、長文を書くのには向かないから、やはり僕はブログが好きだ。そういえばたまにインスタのキャプションに物凄い長文を書く人もいるけど、なんかあれ気持ち悪いなと思ってしまうのは僕だけだろうか…。

写真は撮っていないわけではないけれど、以前ほどこういう写真が撮りたい、という気持ち、所謂写欲がなくなってきていて、やばいなーという気持ちもある。けれど、3年近く撮っているからネタ切れするのも仕方ないよなとも思う。目が肥えてきた結果、自分の写真に満足できなくなったのかもしれない。満足してしまったら終わりだとも思うけれど。

結局のところ、インスタをはじめSNSに踊らされていたというか、そこが原動力になっていたというのは否めない。ミュート機能が導入されて以降、変に影響を受けるのが嫌で東京カメラ部とかああいったフィーチャーアカウントの類を一切見ないようにしていたのだけれど、それが良くも悪くも影響してきているのだろうか。最近はフィーチャーされることもなくなってきたし、されたいとも思わない。無関心。そういう世界線でやっていきたい人はやっていけば良いと思うし、自分は特に関わりたくもないなという。好きな写真を好きなように撮っていたい。よく分からない誰かに評価なんかされたくない。下手に褒められたくもない。仕事以外のことは好きにやらせて欲しい。
フィーチャーされる写真の傾向も分かるし、フィーチャー狙いの写真というのもなんとなくぱっと見で分かるし、そういったものに魅力も感じない。誰がどう見ても綺麗な絶景。可愛い女の子。赤ちゃん。あるいは犬猫。そういうのはもう良いよ。飽きた。写真ってそういうのだけが全てではないんじゃないか、というところを突き詰めていくのが今後の課題かもしれない。ここら辺のことはずっとずっと考えていることなのだけれど。写真の可能性、というと大袈裟だけれど、他の人が撮っているようなのと同じような写真を僕が撮る必要はないだろう。と、いいつつ、結局同じような写真を量産してしまう僕です。


3月末は年度末というのもあり、仕事が繁忙期で、月末にかけて業務量が一気に増え、止むを得ず残業をすることが増えた。それも今日で終わりだけれど、残業というのは身も心も蝕む。自分の時間がなくなる。おまけに今の職場では残業代は出ない。その代わり、普段は定時ぴったりに帰っても文句は言われないのだけれど。だから普段は、定時に上がって1時間1人カラオケをしてから家に帰り、それからジムに行って筋トレしたり走ったり、そして帰ったら寝るまでお酒を飲みながら好きな音楽を聴いて、という感じで自分の時間を過ごしている。むしろ仕事が終わってからが本当の自分の人生というか。毎日同じようなことを繰り返して、同じような動きをして、同じ場所を行ったり来たりして、ぐるぐるぐるぐると、人生は緩やかでとても長い螺旋階段のようだ。上がっていくのか、下がっていくのかは分からないけれど。でもそういったある一定のリズムの中で日々を過ごしていくのが僕は楽しくて、1人カラオケもジムもある種の求心的なトレーニングみたいな気持ちで行っているし、そのリズムが乱れてしまうのが何よりも嫌なのだ。例えば風邪を引いて喉が腫れたらカラオケには行けなくなってしまい、リズムが崩れてしまう。職場の飲み会なんかがあったら、自分の時間が減ってリズムが乱れてしまう。長時間残業しなければならないとなると、もう家に帰って寝るしか選択肢がなくなる。

そう考えると、僕が求めているのは何よりも自分の時間、自分の人生であって、どんなに給料が上がると言っても、仕事一色の人生になってしまうのは耐えられない。給料が上がっても、使う時間がなくなるのなら無意味だ。高級ブランドにも、ミシュラン幾つ星のレストランにも、車にも時計にもキャバクラにも競馬にも興味はない。心身とも健やかに、慎ましく穏やかに暮らしていきたい。そういった気持ちを叶えるために、今より良い環境があるとはとても思えない。探せばどこかにはあるのかもしれないけれど、そこに自分がリーチできる可能性となると分からない。それより今の立場を失うことによるリスクの方が大きいように思えてしまう。これも何度も何度も考えてきたことだけれど。


今年の年度末は結構忙しかった。今までで3本の指に入る程度には。去年の今頃にはもう今の家に住んでいて、妻と暮らし始めていたはずなのだけれど、去年の今頃がどんな感じだったのか全く思い出せない。思い出せないということは、然程大変でもなかったのだろうか。一番辛かった時は、毎日11時とか12時とかまで残業して、最早体力の限界、という感じで憔悴し切ってしまう程だったが。当時に比べたら今の方が経験も積んでいるし、処理能力も上がっているし、勘所みたいなのも分かっているから、もっと効率よく速く正確にこなせる自信はあるけれど、どうだろうか。


いつも通り、話はまとまらないけれど、もう桜が咲いてきた。桜って色んな種類があるのだな、なんてこと、写真をやる前には気づかなかった。普段の日常の中で、これまで見向きもしなかった、気づかなかったような些細なところから美しいものを見つけられるようになる、というのが、写真をやっていて一番良かったことだなと思う。

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桜と妻。最近妻を撮るのが以前よりもちょっとだけ上手くなったような、そうでもないような。


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何事も愚直に積み重ねていくしかない。

新宿御苑で寒桜とメジロを撮った




新宿御苑では寒桜と河津桜と梅が見頃だった。染井吉野とかはまだまだ。花が咲いてる所以外はかなり閑散としていた。

メジロが沢山いたのでチャレンジ。手持ちの機材で一番望遠のオールドレンズで。被写体が遠い上に小さくて動きも速くて、MFではかなり厳しかった。135mmのクロップで約200mm相当。それでも足りず大幅にトリミング。メジロ撮るにはフルサイズで300mm以上は必要みたい。あるいはAPS-Cで200mm以上か。

そういえばここ1ヶ月ほど、ずっとAPS-Cクロップモードで撮っていたことに気付いてしまった。なんか狭いなーと思ってたら…。フルサイズに戻したら文字通り視野が広がりました。

全然書いてなかった。2月初更新にして今年2回目の更新。

最近写真は撮っていないわけではないけれど、正直ちょっと飽きてきているというか、マンネリ化しているというか、イマイチ身が入らない。勿論日々パチパチと撮ってはいるけれど、どこか納得いかないというか、どこか気持ちが入らないというか、上っ面をなぞっているだけのような撮り方になってしまっている。ただシャッターを押しているだけ、みたいな。これじゃいかん。とは思いつつも、どうしようもない。それが現実であり、それが今の僕の写真なのだ。ならば、只管沢山シャッターを切ろう。難しいことは考えるな。写真とはシャッターを押せば写るのだ。ただただ、シャッターを切ってみよう。写真を始めたばかりの頃のように。

2019年はフィルムで。

おめでたくはないのですが、今年も宜しくお願い致します。

更新していないのにもかかわらず、謎にPVが伸びているので、これは更新しろということかな?と思い筆を執りました。正確にはキーボードをカタカタしました。今回は文章の書き方やや雑です。

デジタル派の僕ですが、最近はフィルムメインで撮っていて、現像代が馬鹿にならない感じです。しかし冷蔵庫で眠っているフィルムたち(40本くらいありました)が賞味期限を迎えようとしているので、使わなければ!ということで。最近撮ったものの中からピックアップ。ウェブは横でしょう、ということで今回は横構図で撮ったものだけ。縦で撮ったやつも良いの沢山あるんですけどね。


以前はロモ400の発色の良さが好きだったのだけれど、最近はフジ400の落ち着いた色味の方がフィルムらしくて良いなぁと思っております。ポートラが一番好きだけど高過ぎるのでもう使わないと思う。35mmのモノクロフィルムは初めて使った。

撮ってる人が同じなので、やってることはデジタルと一緒なのだけれど(フィルター色々使ったりとか)、フィルムは一発撮りだしコストがかかるから、一枚一枚丁寧に撮ろうという意識がはたらくし、同じ構図で何枚も撮ったりはしない。そういうところ、デジタルとは全然撮り方が変わってくるのが面白い。あとα7Sはピント合わせがやや遅いので、一眼レフのササッ!というピントの合い方にはちょっと感動する。タイムラグがない。

こう見てると、人工物よりは自然とか植物とか動物とか、あとは人工物でも綺麗なものより汚いものというか、古い街並みなんかを撮る方が向いてる感じがしますね。フィルムは。今年は冷蔵庫で眠ってるフィルムを使い切るのが目標です。

地方都市の夕景・2018

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今年も残り僅か。今年も一年ありがとうございました。

いつもながらマイペースな更新で、かつ書いている内容も僕のプライベートな日記といった風情で、殆ど読んで下さる方の参考にはならないようなブログですが、僕が目指しているのはまさにそこだったりします。「○○するための7つの方法!」「○○なら知っておくべき10のポイント!」とかそういうネット上によくあるような中身のないゴミ記事ではなく(このブログも中身はないですが)、昔のインターネットによくあった、有名人でもなんでもない、どこかの誰かの普通の日記というのが僕は好きなので。
ここは日本のどこかに住んでいる、写真と音楽が好きな普通の人間の、ただの日記です。何かに参考になるとかならないとか、そういったものではありません。ほぼ100%自分のために書いています。写真と同じで、記録という役割。

今年も沢山写真を撮った。曲はあまり作らなかったけれど、一枚のアルバムという形で作品を作ることができた。今回の写真は今年撮った写真のうちのベストショット、ではなく、最近撮ったもの。最新作にしか興味がないのです。というかベストショットってなかなか選べないので…。

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今年買った機材としては、

SONY DSC-RX100
SONY Distagon35mmF1.4 SEL35F14Z
SONY Vario-Tesser16-35mmF4 SEL1635Z
SONY FE85mmF1.8 SEL85F18
CONTAX Sonnar135mmF2.8
COSINA Planar50mmF1.4ZF

といった感じ。色々買ったなぁ。一気に装備が増えた。気付けばソニーの無印85mm以外は全部ツァイスだった。でも無印85mmはツァイスのBatis1.8/85(タムロンOEM)より画質が良いらしいから、実質ツァイス!


まずカメラは常に持ち歩くためのサブカメラ、初代RX100というコンデジ。これはちょっと出かける時や、カメラを持っていけない時、仕事中もずっと持ち歩いて、気になるものがあったらパチパチ撮っている。軽くて小さくてよく写る。ファインダーのある3代目と迷ったけれど、初代が一番小さくて軽くて画質も良いらしく、さらにレンズの画角が28-100mmなので初代にした。

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レンズはα7SのためにSONYの無印85mmF1.8とCONTAXのSonnar135mmF2.8といういずれも中望遠の2本と、Distagon35mmF1.4とVario-Tesser16-35mmF4という広角の2本。そして妻から借りているNikon FEのためにCosina製Planar50mmF1.4(結局アダプターをかましてα7Sで使っている)、あとはフィルターとか、ラジオスレーブとか、細かい撮影グッズをいくつか。

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機材は減らしたい減らしたいと思いつつも、増えていってしまう。こういう写真が撮りたい、あるいはいつもと違った写真が撮りたい、というのを機材で解決しようとするとそうなる。けれど、機材で解決できることも多いというのは事実。もとい、その機材がないと撮れない写真というのも間違いなくある。ここらへん、エフェクターと考え方が同じ。アンプ直ではリバースディレイやシマーリバーブの音は出せない。
自分で実際に使ってみないと分からないことも多くて、疑いを持っていた「ポートレートには中望遠レンズの方が良い」という言説は本当だった。歪みがなくて、ボケが大きいから。しかし人の多い街中での撮影だと難しい場面も多いというのは予想通り。そして広角レンズはやはり1本あると便利。毎回使うものではないけれど、「ここは広角だな」という場面というのは少なからずある。しかし何だかんだ、50mm付近の標準域のレンズが一番使いやすい。Sonnar55mmF1.8(SEL55F18ZA)というレンズが一番好き。軽くてコンパクトで良く写る。α7ユーザーは必携の1本。
来年は何も買わないのが目標。しかしズームレンズは1本欲しいかな。タムロン?ツァイス?シグマの135mmとかソニーの70200のズームとかはお店で実物見たら流石にでか過ぎるから諦めがついた。コンパクトな35mmも欲しい。Sonnar35mmF2.8買い直す?とはいえF1.4があるしなぁ。AFは必須なのでVoigtlander NOKTON 35mmF1.4とかはないかな。あれ、写りは好きな感じだけど。しかしまぁ無駄な浪費をしないのが一番の正解な気がする。

大砲。諦めました。
シグマ 135mmF1.8DG HSM Art ソニーEマウント 135mmF1.8 DG SE

シグマ 135mmF1.8DG HSM Art ソニーEマウント 135mmF1.8 DG SE

流石に重過ぎるだろう。どうやって持ち運ぶのか…。こりゃあ、使ってる人見かけないわけだ。写りは好きな感じなのだけれど、やっぱりAFじゃないとなぁ。去年もこれが良い、って書いた気がしますが、やはり一番バランス良いです。


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去年の11月〜今年の11月までの1年間で撮ったポートレートをまとめた写真集を作っている。オンデマンド印刷で少部数しか刷らない(刷れない)ので販売はしないけれど、自分の中では大切な作品となりそう。目下、セレクトに難儀しているところ。
次はどんな作品を作ろうか。写真を撮る目的として、写真集にまとめるというゴールを設定していく方が、撮影そのもののコンセプトを固めやすくて良いような気がしている。撮影に際して一本軸が通っていた方が、的を絞れるから。ポートレートはある程度やりきった感があるので、今後はスナップとか風景とか、そういう方向性で模索していきたい。同じようなことを繰り返すのは好きじゃないけれど、良い被写体が見つかったら人物も撮っても良いかも、とも思ってはいるけれど。
どうしても、川島小鳥の写真集とかが好きで始めたから、人物写真こそが至高!みたいな極端な思考で写真を撮っていたし、そう思っていたけれど、実際はそんなことはない。人物の方が誤魔化しが効くというか、撮る方が下手糞でも被写体の力によって何とかなってしまうことが多いというだけ。つまりは今までの写真というのは僕の実力ではなかったのだ。とも言える。夕焼けの写真は誰がどう撮っても綺麗なのと同じように。

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そろそろ冷蔵庫で眠っているフィルムを使ってしまわないと、期限が切れてしまうので、最近はまたフィルムで撮るようにしている。フィルムだとレンズが50mmと35mmの2本しかないので楽だ。機材は少なければ少ないほど良い。少ない機材で頑張ろうとすると、何をどう撮るか、に集中できる。例えば多重露光をしてみようとか、そういう発想が出てくる。制約があるからこそ発揮できるクリエイティビティというやつ。デジタルだとレンズが沢山あるから、レンズ交換でなんとかしようという思考になりがち。そういえばデジタルだと、多重とか全然やらないなー。α7Sを買ったばかりで、ヘリオスとかタクマーとかのオールドレンズしかなかった頃はやってたけど。多重はその場で一発撮りでやるのが好き。あとから編集で重ねようとするとダサくなることが多い(当社比)。

デジタルか、フィルムか、どちらを持ち出すべきか、どちらで撮るべきか、と悩むのが毎度面倒で嫌なので、いずれ完全にデジタルオンリーのワークフローにしたい。という気持ちもありつつも、フィルムもたまに使うと面白いし、奇跡の一枚が出ることがあるから、やはり完全にはやめられない。結局今後も曖昧な感じで運用していくことになりそう。暫定的な処置として。
Canonのレンズが2本あるから、Canonの(デジタルの)ボディを買っても面白いかも、なんてちょっと思ったりした。5Dm2とか、6Dとか。しかしα7Sがメインである以上、レンズが共用できないことを考えるとちょっと使いづらい。それだと結局、どちらを持ち出すべきか、と悩むことになってしまい本末転倒だ。やはりマウントは1つに絞るべきで、複数のメーカーのカメラを使うのは避けるべきだ。Canonフィルムカメラもレンズも売ってしまって、その分SONYのレンズでも買った方がトータルでは安く済むのかも。いやそもそも何も買わない方が、とか色々余計なことを考えてしまう。機材のことじゃなくて、写真そのもの、何をどう撮るのか、つまりファインダーの向こうにあるもののことを考えるべきなのに。機材のことを考えなくても良くなるようにするために、機材のことを考えている。

色々細かいことに拘ろうとすれば、どこまででも拘れてしまうし、色んな人の言うこと、色んな所に書いてあることを全て真に受けていたらキリがないから、いかに諦めるか、だと思う。α7Sさえあれば、ストロボも基本的にはいらないし、レフ板もいらないし、暗くても手持ちで撮れるから三脚もいらない。あとは例えば多灯ライティングなんてする意味も必要性もないし、そもそも街撮りでは不可能だ。ミラーレスの優位性である軽さ・小ささを生かした機動性重視の撮影を。そもそも作り込んだ撮影をすることってないし、僕の写真はスナップ的な要素が強い。一瞬の光を捉えて掬い取るのだ。決定的瞬間!

アンリ・カルティエ=ブレッソン:20世紀最大の写真家 (「知の再発見」双書)

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全ては写真と同じ。選択と集中。引き算。何を選ぶか、そして要らないものをいかに切り捨てるか、だ。
技術も勿論だけれど、それより感性の部分の方が重要。技術論というのはある程度決まりきっているものだから、誰でも勉強なり練習なりすれば身につくものだけれど、感性を磨くということには決まりきったやり方はないし、一朝一夕にどうにかなる話ではない。技術とは表現に資するもの。自分の表現を見つけていくためには、何よりも感性を磨くことに徹するべきだ。

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引っ越して彼女と暮らし始め、結婚して夫婦になったというのと、母が亡くなったというのが、やはり今年のハイライトか。こんな表現でまとめたくなんかないけれど。あとここでは書けないけれど仕事でも色々あった。妻とは毎日会うし、亡くなった母のことを考えない日はないから、これらのことは僕の日常において大きな事件であり、つまりは僕の人生そのものである。妻の写真はいつでも撮れるけれど、母の写真はもう撮れない。妻の曲は作らなかったけれど、母に捧げるアルバムは作った。考えても仕方の無いようなことばかり考えてしまう。いつかは僕も死ぬのだ。当たり前だけれど。来年も生きましょう。来年も地方都市の夕景を宜しくお願い致します。
それでは、ちょっと早いですが良いお年をお迎え下さい。

BABY BABY

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