地方都市の夕景

音楽と写真

December

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早くも12月。もうすぐ今年も終わりか。早いなー。

最近は中望遠レンズを中心に使っている。自分の中での流行り。あと季節柄イルミネーションを撮りに行くことが多いから、フィルター等を使って色々試している。毎回、実験、実験という感じで。日が短いから、早く出ないと日が沈んじゃう!という理由で昼間に外出することが増えたような。フィルムはほぼ使っていないけれど、デジタルでの撮影枚数はちょっと増えてきた。現像が大変。そんな日々。

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桑島智輝の(=安達祐実の)写真展を見に行ったり、取り壊しになるヤマハエレクトーンシティでの写真展(ARIGATO SAKURAGAOKA produced by ART PHOTO TOKYO)を見に行ったりして、何をどう撮るのが正解なのか分からなくなった。他人の撮った写真を沢山見ると、いつもそうなるのだ。よく分からなくなる。けれど、そこはある意味割り切っている部分でもあって、結局のところ、自分は自分のスタイルで、これまで通りに、自分の写真を撮るしかないのだ、というところに落ち着く。誰かの真似をする必要なんてない。そういえば、アート系の人たちの間では、未だにフィルムが根強い人気なのだなとは思った。桑島さんもフィルムだった。僕も冷蔵庫にあるフィルムを使わなければ。期限が切れてしまう。

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何をどう撮るか。僕の場合、何を撮りたいのかが分からないというか、こういうのが撮りたい、というのがあまりない。その場その場で、美しいと思った瞬間を切り取ることしかできない。予め頭の中に絵が出来ているわけではなく(できている時もあるが)、ある意味受け身で、向こうからやってくるものを撮っている。ポートレートを撮るときも、何も決めずに行き、その場で構図を考える。
「絵を描くのは創造していくこと、写真を撮るのは発見していくこと」といったような言葉をどこかで見たけれど、まさにそんな感じ。その場、その時、その瞬間に発見していくこと。魅力的な被写体を見出していくこと。だから外に出かけてみないことにはイメージすらも浮かばない。あるいは漠然としたイメージはあったとしても、その通りになることなんてないし、むしろ自分のイメージ、あるいは自分の内側にあるものなんてたかが知れているから、自分の枠内に収まる程度のものではなく、予想外のものが出来上がるのでないとつまらない、という感じで、やはりそれが自分のスタイルなのかもしれないと最近思い始めた。それが正しいのかどうかは分からないけれど。


妻の写真は頼まれなくても撮るし、これは作品兼記録という感じで死ぬまで続けることになると思うけれど、それ以外の人の写真、所謂ポートレートは、どうなんだろう。最近ずっと同じ人を1年間撮り続けて、正直もう良いかなと思ってしまった部分もある。けれど、魅力的な被写体がいるのなら撮りたいという気持ちもある。しかし、如何せん撮りたいと思う人がいない。とはいえ撮りたい人を探すというのもなんだか、ちょっと違うような気もする。なら撮らなければ良いじゃないかと言われればそうだけれど…。結局、探すしかないのか。探さないことには見つからないというのは分かるけれど、んー、なんだかなぁ。色々と面倒だ。億劫に感じてしまう。これは結局、同じようなことの繰り返しにしかならないのではないか。今までにやってきたことと同じようなことを繰り返したところで、果たして良い作品が生まれるのか。そもそも何が表現したいのか。というかそもそも何かを表現するために写真を撮ったことなんてあっただろうか。あるいは何かを表現したつもりにでもなっているのだろうか。所詮は遊びなんだから、難しいこと考えないで撮ったら良いんじゃないか、という気持ちもある。僕の写真なんて大したことのないレベルなのは分かってはいる。

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こう並べてみると、多少ズラしてはいるけれど、日の丸構図が多い。そしてRAW現像も正解が未だによく分からない。機材は減らしたい減らしたいと思いつつも増えていく。特にオチはありません。

november

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11月も半分くらい終わって、そろそろ今年も終わりそうだ。早いな。本当に、人生はあっという間に終わってしまいそうだ。

11/11の、THE NOVEMBERSのワンマンライブは物凄く良かった。心配になる位、かなり攻めたセットリストだったし、夢にまで見た新曲まで聴けた。待望の、というか最早待ち草臥れたニューアルバムは来春リリースされるらしい。3年も待たされた。


悲しいくらいに再生数伸びませんが、新曲配信中です。宣伝です。
Apple MusicでもSpotifyでも、その他サブスクリプションでも「amilamia」で検索したら聴けます。是非。

Gaze - Single

Gaze - Single

  • amilamia
  • ロック
  • ¥150

open.spotify.com


SoundCloud、暫く更新していなかったせいか、以前にも増して再生数が伸びなくなった気がする。あるいは、SoundCloud自体がもう流行っていないのかもしれない。
まぁ再生数が目的ではないし、それでは「Twitterのフォロワーを増やすのが目的」みたいに本末転倒な話になってしまうけれど、誰にも聴かれない音楽を作り続けているというのは、我ながらやや狂気じみているようにさえ思えてくる。誰も客のいないライブハウスのステージに立ち続けるアマチュアバンドみたいな。元々自己満足だし、自分のためだから、自分のために続けるけれど。僕が死んだら、葬式のBGMにでもしてください。

写真も同じで、被写体がいる場合には被写体のためというのもあるけれど、基本的には僕が撮りたいように撮るのだから、やはり自分のために撮っている。つまりは自己満足の趣味である。人のために写真を撮るということもたまーにあるけれど。というかそもそも趣味って何でも自己満足か。仕事じゃないんだから。このブログだって、自分のために書いている。勿論、ある程度は読んでくれる人がいることが前提だけれど、読者のためだけに書くということはない。
もっと趣味の仲間とかを作って、外に開いていった方が良いのだろうかとかもたまに思う。でもそういうの苦手なんだよな…。人間性を疑われそうだけれど、あんまり他人に興味ないし…。馴れ合いで、大して良いとも思っていないものを「良いですね!」みたいに言ったり、言われたりもしたくない。でも世の中で上手いこと生きていくには、そういうのが大事なのだろうか。自分の写真にも、他人の写真にもシビアでいたい。


あの人が上司/客/取引先/その他の利害関係人でなかったならば、とっくにボコボコに殴り倒している、あるいはめった刺しにしている、というような、嫌い/ムカつく/消えて欲しい/○したい/くらいに不快であったり激しい怒りを覚えるような人間というのは、誰にでも、どんな環境で生きようとしても必ずいるものなのだろうと思う。僕はそういう奴を、何回もナイフでめった刺しにしている。何度も何度もボコボコにしている。脳内で。勿論、現実にはそんなことはできない。だから今日も脳内でボコボコに殴り倒す。俺はお前を許さん。そういう気持ちというのは、写真で表現するよりも音楽の方が形にしやすい。単純に激しい曲にしたり、そういう内容の歌詞にすれば良いから。
というか写真で何かを表現したことなんてあっただろうか。写真表現って何だ?写真は所詮写真だ。見た人が好き勝手に解釈すれば良いと思っている。なんだか、中身の無い人間が中身の無いことをしている、下らない虚栄のような気もするけれど、まぁ仕方ない。僕は凡人だから。

いつまで今の職場で働けば良いのか。というか、いつまで働けば良いのか。いつまで生きれば良いのか。

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傷ついたり傷つけられた分だけ、自分だけは他人に優しくありたいと思うけれど、それももう限界かもしれない。こんな世界でも何とか生きなければならない。

「enterrement entertainment」に寄せて(追記あり)

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僕がやっているバンド、もといソロプロジェクトであるamilamia(アミラミア)が初のデジタルEPをリリースしました。
まずはBandcamp及びSoundcloudでの配信になります。いずれも無料でDLできるので聴いてみて下さい。
今後Apple MusicやSpotifyなど各種サブスクリプションにも対応するかも。しないかも。


追記:Apple Musicをはじめ各種サブスクでも配信開始しました。
リードトラック「gaze」1曲だけですが。

Gaze - Single

Gaze - Single

  • amilamia
  • ロック
  • ¥150



soundcloud.com


今作のリリースにあたり(誰にも求められていませんが、自分のために)セルフライナーノーツを書きます。

元々EPあるいはミニアルバムという構想があったわけではなく、日々の合間に作っていた曲が貯まってきた(最近、日常的に曲は作っていた)ので、これを機に一枚の(厳密には盤としての形は存在しないけれど)アルバムとして形にしてみよう、とふと思い立った。確か、最初に作ったのはmiraiという曲だけれど、この曲のオケを録ったのはまだ一人暮らしだった頃だから、恐らく去年の冬だったはず。

それからEPなら6曲は欲しいな、というところで、曲を作ったりボツにしたりしていく中で、この6曲になり、それぞれを仕上げていくうちにだんだん6曲を通じたテーマ的なもの、通底するものが見えてきた。

これは7月に亡くなった母に捧げるEPだ。と言うと、ちょっと嘘になってしまう。この6曲の中で歌われている内容としては、勿論そういう要素もある。タイトルからしてそうだし、露骨にそれを意識した歌詞も出てくるけれど、悲しみとか喪失感そのものだけが創作の原動力となったわけではなく、どちらかと言うとそれも含めた最近の身の回りの環境の変化や日々の移ろいの中で、自分が何を感じて生きてきたか、みたいなところをパッケージングした、と言った方が正確な気がする。だから、ある意味でこのEPは今現在の僕そのものだ。僕が死んだら、このEPを僕そのものだと思って聴いて欲しい。しかし、これが遺作になってしまうのは納得がいかない。もっともっと良い作品を生み出す為に、僕は前を向いて生きていく。といった内容のEPである。必聴である(いつも通り、特に反響はないけれど)。

「enterrement」とは、フランス語で「埋葬」の意味。直訳すれば「埋葬エンターテイメント」。このEPが生まれた直接的な動機としては、やはり母の死という要因が大きい。それに起因して生まれた楽曲群、という意味でこのタイトルにした。それを楽しんでいるかのような、ちょっと自嘲的な意味合いにも捉えられる。

アートワークは渋谷の風景。ハロウィンの日にリリースしたので、ハロウィンといえば渋谷。いうのは後付で、実は何となく適当にチョイスしました。
以下、全曲の解説です。


01.mirai
僕が知りたいのは芸能人が不倫しただの、麻薬やって捕まっただの、そんなどうでも良い話ではなくて、僕自身の未来のこと、明日のことだ。という内容の曲。歌詞そのままだけれど。サビは2コードでどこまでもストレートな感じを目指したつもり。こだまみたいなサビのディレイは、エフェクトを弄っていたら、たまたま、ああいう形になって、そのまま採用した。所々、PELICAN FANCLUBを意識した。

02.kurtosis
自己嫌悪がテーマ。イントロからの不協和音っぽいリフを何となく思いついて、それに肉付けしていった結果、16ビートの尖った曲に仕上がった。全体的に、pollyへのオマージュ。

03.water
3曲目には、当初はニルヴァーナみたいな激しめの曲が入る予定だったのだけれど、ボツになってこの曲に差し替えた。今回は激しい曲が多めなので、真ん中に落とし所があった方が良いだろうということで、敢えてキーも低く、音数も少なく、ギターも一切歪ませずにクリーントーンで。最後の水のような音はギターで出しています。あとはART-SCHOOLへのオマージュ。

04.gaze
お家芸の男女混成ボーカル(風)シューゲイズナンバー。RIDE×MBVといったところか。メロディと歌詞が同時にできたので、歌詞にはやや支離滅裂感はあるかもしれないけれど、個人的に一番気に入っている曲。3曲目を敢えて地味な曲にして、アウトロを長めにしたのも、この曲のイントロがやたら長めなのも、つまりはそういうこと。余白を配置するというのは、アルバム単位でのリリースだからできたことだし、今までにはなかった発想だった。ちなみにラブソングではありません。

05.silent blue
以前からあった曲だけれど、色々問題があったのでボツになっていた。結構気に入っていたのもあり、いつかやり直したいとは思っていたので、ここで再録して再び陽の目を浴びさせることに。曲後半には歌を乗せるというアイディアもあったのだけれど、前半の激しさや次の曲のことを考えて、敢えてインストにした。魂のアドリブギターソロを聴いてください。ドラムの手数の多さとか、何となくCOTDを意識した。

06.hiking
アルペジオのフレーズがお気に入り。本家がピクニックなら、僕はハイキングにしようと。勿論、敬愛するTHE NOVEMBERSへのオマージュ。



荒削りな部分も多いけれど、この作品を完成させることができて良かった。

僕は作品を生み出すためだけに生きている、と言っても過言ではない。仕事ができるわけでもないし、年収が高いわけでもない。他人と接するのは苦手だし、バンドさえも上手く続けることができなかった。それでも、自分の作りたいものを、脳内にあるものを、どうにかして、何とかして形にして、この世に残すこと。そのために今日も明日も生きよう。

フィルムブーム

結婚式の時に写ルンですを大量に買ってゲストに配り、撮影してもらったのだけれど(その写真を元にフォトブックも作った)、その時の余りの写ルンですがまだ残っており、しかし僕は写ルンですの写りがあまり好きではないので、なかなか使い切れなくて困っていた。
結局、レンズを塞いで27回シャッターを切り、フィルムを全部巻き上げ、本体を破壊して中のフィルムを取り出した。フィルムピッカーでベロを出したので、フィルムだけを他のカメラで使うことにする。写ルンですファンに怒られそうな罪深き行為だ。

ここ最近自分の中でフィルムブームなのだけれど、いつも現像に出しているビックカメラの自動補正がここの所どうもおかしくなってしまったようで(或いは大量のデジタル現像をしていく中で自分の眼が肥えてしまった?)、以前よりも色味が転びがちな気がしている。全体的にマゼンタ寄りになる傾向があるような。特に酷いのは、照明が電球色の室内で撮った写真が異様に真っ黄色になってしまうという事象。そしてハイライトが白飛びしがち。シャドウが黒潰れしがち(これらは所謂「フィルム感」なのかもしれないけれど)。結局自分でLightroomで補正しているのだけれど、果たしてこれは僕の仕事なのか…?結局自分で弄ってしまうのなら、最初から普通にデジタルで撮った方が良くないか?などと思い始めてしまっている。こうしてフィルムブームは終焉し、またデジタルに戻る。何枚でも撮れるし、色味も質感もLightroomで思い通りにできるし、と。そして、デジタルのあまりの便利さ、思い通りに行き過ぎて予定調和な感じの写真しか撮れないことに違和感を感じて、またフィルムで撮り始めて…と繰り返していくのがいつものパターン。とりあえず、フィルムの現像は別のお店に出してみることにするか。

フィルムは現像するまでどんな写真が撮れているか分からないし、予想外に良く撮れていたりすることもある。逆に、失敗も多々ある。その「読めなさ」というのがフィルムの醍醐味の一つだろう。しかし、フィルムの方こそ、慎重に撮ろうとしてしまうが故に予定調和な感じの写真しか撮れていないのではないか、とも最近思う。おまけに最近使っているNikon FEというカメラはMFオンリーなのでピント合わせにも時間がかかるし、尚更だ。フィルムで撮りたいなら、使い慣れているCanon EOSkiss5を使った方が良いのかもしれない。AF使えるし、日付も入るし。まぁ、まだNikon FE+Planar1.4/50を使いこなせていないというだけの話かもしれないけれど。不確実性、不安定さ、みたいなものを求めるのなら、Nikon FEの方が良いかもしれない。前回の記事の写真はピントが甘いものが多いけれど、AFが使えるカメラだとああいう写真って意図的に撮ろうとしない限り、逆に撮れないものだったりする。MFオンリー=ゆっくりじっくりピントを合わせて丁寧にシャッターを切る、という使い方をするカメラなのだろうけれど、正直そういうのは向いていない(それ故に二眼レフも手放した)。ただ、このカメラは妻の祖父のものだから、このカメラを使うということに意味があるのだと思って使っている。

中判に憧れてリコーフレックスを買った時もそうだったけれど、中判を使ったからといってそれだけで良い写真が撮れることはなかったし、川内倫子みたいな写真も撮れなかった。結局、そういうことなのではないだろうか。写ルンですを使っても、奥山由之みたいな写真はなかなか撮れないのと同じように。

フィルムで撮ればそれだけで良い写真になるのではないか、などと、甘く考えていたのではないか?よく言われることだけれど、フィルムで撮ってりゃ良いってものではない、写真そのものが良いか悪いかだ。自己満足であってはならない。通常、写真を見る人はフィルムかデジタルかなんて気にしていない。何のレンズを使ったかとかそういうことも。
写真は感性と腕が全てだ。カメラは手段だから、使い易いのを使うのが一番。例えば中判で良い写真を撮っている人たちは、中判を使っているから良い写真なのではなくて、純粋に写真が上手いのだろう。きっと中判に限らずどんな機材を使おうとも上手いのだ。フィルムで撮っているかどうかも関係がない。川島小鳥の写真は、EOS 5DmarkⅣで撮った写真でもやはり川島小鳥感がある。つまりはそういうことなのだろう。

しかし、これは逆のことも言えて、Nikon FEでコンスタントに良い写真が撮れるようになれば、α7Sではもっと良い写真が撮れるようになるのではないか、とも考えられる。最初にフィルムを(大人になってからまた*1)始めたのは、そういう理由からであった。α6000だけではなく、フィルムもやったらもっと上手くなるのではないか、と友人に言われたことがきっかけだった。実際に上手くなったのかどうかは分からない。けれど、例えば少し前に作った妻の写真集(フィルムオンリーのと、デジタルオンリーのと2バージョンある)を見返していると、フィルムで撮った写真の方が良く見える。デジタルで撮った写真の方が色味は鮮やかだし、階調も豊かだ。フィルムの方は粒子が荒いし、ハイライトは白飛びしがち、シャドウは黒潰れしがち。それでも、フィルムで撮った写真の方が温かみや柔らかさがあり、心の琴線に触れる何かがあるような気がする。気がするだけかもしれないけれど。

僕がフィルムを始めてからの短い間にも、フィルムの種類はかなり減ったし、現行のフィルムは値上げされたし、一部のフィルムカメラがやけに高騰したりもしている。(世間の)フィルムブームもいつか必ず終わる。今後、現像代も必ず値上げされる日が来る。やがて、趣味で撮るにはちょっと手が届きづらいような値段になっていき、今では即日上げてくれるネガフィルムの現像も外注になり数日かかるのが当たり前、みたいなことになっていくのだろうと思う。全ては期間限定なのだ。フィルム写真というのは、どう考えても今のうちしか楽しめない遊びだ。だとすれば、今のうちにフィルムを使っておかないと損なのかもしれない。5年後にまたやろうとしても、もうフィルムも売っていなくて、あるいは超高額、そして現像代も倍くらいになっているかもしれない。そもそも現像してくれるところがない、とか。

冷蔵庫にまだ20~30本くらいはフィルムのストックがあって、実のところ最近はストックしていたフィルムを使うことが殆どだから、フィルムを新たに買うということがあまりない。前に自分の中でフィルムブームだった時に「安いうちに買いだめしておこう」と買い込んだものが殆どだ。結果、これは正解だった。気付いたら業務用フィルムのISO400というのは廃盤になっていた(冷蔵庫にまだ10本ある)。ロモも値上がった。今一番安いのは業務用の100か、逆輸入品のC200で1本あたり500円弱。これからさらに値上がるのだろうか?C200の10本セットは買っておくべきかもしれない。

そういえばポジフィルムってクロスプロセス以外では使ったことがないから、経験として1本くらい使ってみても良いかもしれない。ベルビアとか。モノクロもブローニーで1本使った以外使ったことがないので、こちらは何本か買ってみた。

今度はフィルムで作品撮りをしよう。美しいものを撮りたい。

*1:僕が小さい頃はフィルムしかなかった。当たり前のようにフィルムカメラで釣った魚の写真などを撮っていた。現像・プリントも今よりずっと安かった。

Kodak ULTRAMAX400で撮った写真

以前このブログ経由で結婚祝いに頂いたフィルム、Kodak ULTRAMAXを漸く使って現像したので、その写真をアップします。
フィルムを送ってくださった方、ありがとうございました。

amilamia.hateblo.jp

以下、全てカメラは妻から借りているNikon FE、レンズはコシナCarl Zeiss Planar 1.4/50ZFです。
ビックカメラでデータ化したものをLightroomで多少調整しています。


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1ロール全部ではありませんが。そして特にこれと言って特筆すべき写真があるというわけでもないのですが、日常を焼き付けておきました。

Kodak ULTRAMAX400を送って下さった方、ありがとうございました!