地方都市の夕景

音楽と写真

何時だって今が

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最近街中でよく見かけるような小さいサコッシュなんかでは、流石に僕の持ち物を全部収めるには小さ過ぎると思うけれど、そこまでではなくとも、ちょっと持ち物を減らしてみたいと思うようになった。そういえば少し前に浴衣を着た時、どうしても荷物を減らせなくてトートバッグを手に持ちながら歩いたのだけれど、あれは不便で仕方なかった。交換レンズは一つだけとはいえ、馬鹿でかい重量級レンズだったし、ストロボやフィルターも全部は置いてこれなかった。最小限の装備で良いような時はできる限り削ぎ落としたい。今日は撮るぞ!という時に荷物が増えるのは仕方がないとしても。

手始めに、財布をコンパクトなものに替えた。お札が折れ曲がるのが嫌でずっと長財布を使っていたのだけれど、長財布は当然嵩張るし、最近は殆ど現金を使わなくなったのもあり、片手に収まるような三つ折りのタイプにした。カード類は入りきらないので、カードケースを別に持つことにして。

次に、レンズを何本か売って(ドナドナ)、そのお金で以前使っていた小さいレンズを買い直した。ソニーの35mmF2.8。売ったり買ったり売ったり買ったり、本当にどうしようもないなと思う。3年程前に直感的に買ったα7Sは、当初はオールドレンズ専用機になってしまっていたけれど、やはりAFがないと不便だな、と思って買ったのが55mmF1.8と35mmF2.8だった。後に35mmF1.4が欲しくなってしまい、これを買う時にF2.8の方は売ってしまったのだけれど、やはりあのコンパクトさは何者にも代え難い魅力だったのだと今更気付いた。それから16-35mmズーム、85mm、24-70mmズーム、135mm、と一通り揃えてしまった今になって思うのは、55mmと35mmだけで頑張っていた頃の写真の方が何となく良く見えるということだ。勿論、技術的には今の方が進歩しているし、機材も増えて表現の幅は広がったのだけれど、やはり選択肢が少ない方が、その少ない選択肢の中でどうするか?ということを考えるから、結果的に良い写真になっていたのかもしれない。機材が増えれば増えるほど、機材に踊らされてしまうような部分はある。

だからといって、手持ちの他のレンズを全部売り払う、というわけではないけれど、一旦55と35の二本をメインにミニマルな装備で撮ってみることにした。敢えて原点に戻ってみたくなったのだ。フィルター系もよく使うやつだけにして。ストロボも、もっとショボくて良いからコンパクトなやつがあれば良いのだけれど。マニュアルで光るだけのような。

久しぶりにこのレンズをカメラに装着してみて、これだよこれ、やっぱりこれだよ、と思った。笑っちゃうくらい軽くて、カメラのハンドリングがかなり軽快になる。まるでコンデジでも扱っているかのような。F2.8だからあまりボケないし、35mmの割には寄れないし、弱点は色々あるものの、この小ささ、軽さにおいては右に出る者はいない。そしてカールツァイス銘は伊達ではなく、色乗りの良さやシャープさにははっとさせられる時も。

今やソニーに続いて、キヤノンニコンパナソニック、シグマ、と各社フルサイズミラーレスを出してきて、カメラ業界はフルサイズミラーレス戦国時代みたいになっているけれど(とはいえそんなに売れてはいないらしい。当然だ。高価すぎる)、ボディは色んな機能を追加するためにどんどん巨大化し、レンズもデカくて高いのばっかりが出てきている。光学性能を突き詰めていくとそうならざるを得ないのだろうけれど、結局デカくなってしまうのなら、一眼レフからミラーレスに変わった意味はなかったのでは?と思ってしまう。
ソニーのα7シリーズも、結局ちょっとずつ大きくなってきてしまっているけれど、僕は初代のα7シリーズのコンパクトさが好きで、そのコンパクトなボディに合うのはやはりコンパクトなレンズなのだ。明るさよりもまず、小ささ軽さ。SEL35F28Z Sonnar T* FE 35mm F2.8 ZAというレンズこそ、実はソニーの最高傑作なのではないかと思っている。なぜなら、フルサイズでAFが使えてこんなに小さくて軽くて写りの良いレンズは他にはないから。分かりやすく大きいボケが得られるわけでもなく、そっけないと言えばそっけない写りをするし、35mmという画角自体が普通に取ると普通の写真になりがちと言うか、玄人好みのレンズだなと思う。

そういえば、キヤノンのレンズもドナドナしてしまったから、eoskiss5で使えるレンズが元々付いてたズームレンズだけになってしまった。しかも、時たまエラーを吐いて動かなくなってしまう昔のシグマのレンズ。そしてeoskiss5とも近々お別れする予定。そうすると、最早コンパクトカメラとトイカメラしかなくなってしまうのだけれど、これで漸くフィルムともお別れできそうかな、というところ。まだ冷蔵庫にフィルム残ってるけれど。

何時だって自分が生きているのは今だけで、今が全てだ。先のことはどうなるか分からない。そう言い訳して散財ばかりしているような気がする。しかしいくら貯金したところで、あの世まで持ってはいけないしなぁ。あるいは年取って身体が不自由になってからじゃ、楽しめるものも楽しめないし。同時に、ミニマリストになりたいとまではいかないけれど、不要なものをたくさん溜め込んでいても仕方がないなと最近よく思う。明日死ぬかもしれないし、今日死ぬかもしれないし。欲しいものは買って、要らないものは売っていこう。なんとも当たり前な結論になってしまった。

男性的な写真

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自分の写真は恐らく男性的な写真なのだと思う。ゴリゴリのマッチョを撮っているとかそういう意味ではなく、(自分ではあまり分からないけれど)人から見れば、男が撮っている写真だと一発で分かるだろうということ。最近そんなことを考える。


男性的な写真を構成する要素とはなにか。

・被写体が主に女性である
→勿論、女性が女性を撮ることも多いけれど、男性が男性を撮っている例は少ない。

・ロケーションや背景に人工物が多い
→女性的な写真は公園、お花畑、海岸、部屋の中なんかが多いだろうか。
 こちらの方が「男性的な写真」を決定づける要素として大きい気がする。
 撮っているものや場所が硬いか柔らかいか、みたいな。

僕は意識してあまり他人の写真を見ないようにしているので、偏見かもしれないけれど、例えば工場夜景が好きな女性とかいるだろうか。廃墟とか屋上とか螺旋階段はどうか(これは僕の趣味)。夕焼けは男女関係ない気がするな。星景写真はどうか。ストリートスナップは男性的だと思う。撮り鉄はおっさんしかいないような。

僕は性自認は男だし恋愛対象は女性だけだ。自分が男性であることからは逃れられない。世界中のレイプ犯と同じ身体の仕組み。男性であるというのは自分を構成する一要素だから、つまり自分が自分であることからは逃れられないということ。どこまでいっても自分は自分でしかない。ある日突然特別な能力や才能が芽生えて変わるということもない。配られたカードで戦うしかないのだ。勿論、男性的な写真はダメとかそういう意味ではない。


以下、ここ1ヶ月くらいで撮ったものの中から適当にピックアップ。

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例えば前立腺がんで睾丸摘出、となると、男性ホルモンが作られなくなるからホルモンバランスが崩れ、更年期障害のような症状に見舞われてしまうらしい。一気に落ち込んでしまうと。テストステロンはやる気とか意欲を司るから、頷ける話だ。MtFの人が睾丸切除することもあるけれど、ああいった人たちは女性ホルモンを打つから、それでホルモンバランスを保つということらしい。故に精神的に不安定にはならない?宦官とかカストラートのことも調べたけどよく分からなかった。

かなり話が逸れてしまったけれど、男性的な写真、女性的な写真、というのは絶対にあると思っている。LGBTの人たちが撮る写真というのも何らかの傾向を示すものなのだろうか。もし宦官やカストラートに写真を撮らせたら?


男性が撮る男性的でない写真、女性が撮る女性的でない写真、というのを見てみたい。ただ、意識的にそれをやろうとしてやっている、となると違う気がするけれど。

いつものように特にオチや結論はありません。

フィルム世紀末

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フィルムは確実に終わりに向かって行っている。
6月から、何度目か分からない値上げもされた。1本1000円以上するフィルムなんて、ちょっと前は高級品扱いだったけれど、今やそんなのは当たり前になってきた。はっきり言って、最早フィルム写真をやるのはコストがかかり過ぎる。フィルム写真とは、一部のマニアックな愛好家の趣味でしかない。それは当然の前提として。

アマゾンで軽く調べた程度だけれど、今現在出来る限り安くフィルムを買うのなら、ということで少しまとめてみた。
ちなみに最後の砦だと思っていたロモは大幅に値上げし、最早気楽に買える値段ではなくなってしまった。残念極まりない。


24枚撮りも36枚撮りも現像代は同じなので、36枚撮りの方がコスパが良いだろうということで36枚撮りのみピックアップ。
汎用性から考えるとできればISO400を使いたいところだけれど、現状だと晴れた昼間に撮影することを前提として、ISO200のフィルムをメインにした方が良いかもしれない。

Kodak GOLD200 36枚撮り 10本 4280円 → 1本428円

・FUJICOLOR C200 36枚撮り 10本 4580円 → 1本458円

Kodak Color Plus200 36枚撮り 10本 4780円 → 1本478円

ISO200で妥協するのなら、このあたりが一番安いだろう。
少し前なら、このくらい出せばISO400の36枚撮りが買えたのだけれど…



いや、ISO200じゃちょっと心許ない、室内や夜間の撮影もするからISO400で、というなら、選択肢はこれらしかない。

FUJIFILM SUPERIA X-TRA400 36枚撮り 3本 1920円 → 1本640円

Kodak ULTRAMAX 36枚撮り 10本 6480円 → 1本648円

ここら辺のフィルムにしたって、いつ供給がなくなってしまうか分からない。
出来る限り安いうちに買い溜めしておく、というのはフィルムフリークなら皆やっていることだとは思うけれど、本当に先が見えない状況だ。

個人的には、モノクロフィルムの復活なんてしなくて良いから、ネガフィルムの値上げをしないで欲しかった。
まぁ無理な話だろう。フィルムは赤字部門なんだから。値上げして製造を続けてくれているだけでもお情けみたいなものだ。

自分は今あるフィルムを使い切ったらフィルムからは撤退して、デジタルだけのワークフローでやっていくつもり。
フィルムでしか撮れない写真というのはないけれど、デジタルでないと撮れない写真というのは確実にあると思うから。

それでも、フィルムには夢があると思う。夢を見させてもらった。ありがとう、フィルム。

ちなみに今回の写真はiPhone8plusで撮影。iPhoneも結構いけるよね。

猟奇的なキスを私にして

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タイトルはゲスの極み乙女。ですが、今回は不倫の話とかではなく。

ツイッターで例の写真を貼ったらアカウントをロックされてしまったので、はてブロでも同じようなことになるかも。ということで貼りはしないけれど、ちょっと検索したら出てくると思うので。先日起こった、新宿区でガールズバー店員の女性がホストの男性を刺して現行犯逮捕された、例の殺人未遂事件の写真。なぜあんな写真が流出しているのか分からないけれど、血塗れの女が全裸の男を刺した後で一服しながら電話している、あの写真に強い衝撃を受けてしまった。これこそが写真だ、これが本物だ、と思った。まるで映画のワンシーン、というか、あれはもう映画でしかない。ピューリッツァー賞ものじゃないかと本気で思う。ちなみにそれをモチーフにした曲まで作ってしまった。後日公開。

カメラがどうとかレンズがどうとか、フィルムだのデジタルだの、そんなことは全部どうでも良い。例えば東京カメラ部なんかで取り上げられているような、フォトショップで加工しまくった果てにCGみたいになっている、最早フォトショ選手権でしかないのではないか、というような「写真」は、あのスマホで撮られたと思われる猟奇的で衝撃的な写真に勝てるのだろうか。


ただ、猟奇的であれば良いとか、グロテスクな要素を含んでいれば良いとか、そういう話ではない。血糊を塗ってあれの真似をすれば良いとか言う話でもないのだ。それもやりたいけど(今回の写真はたまたま?二年前に撮っていた廃墟での写真。血だらけ、という共通項があったので。被写体は当時の彼女、つまり今の妻です)。

しかし写真とは何なのかという根本的な問いに対して、僕はあれこそが写真だと思ってしまった。あの圧倒的なリアルさ、生々しさを前にしたら、フォトショでバキバキに加工してCGみたいになってる写真にポエム添えて自己陶酔してるような奴らの「写真」なんてゴミでしかない。あれこそが!写真だ!と、思うくらいに衝撃を受けてしまったのでこの記事を書いた。

写真やってる人で、あの写真を見て何も感じなかったとしたら感性が腐っていると本気で思う。それでいて東京カメラ部のバキバキCG「写真」にいいねとかしてたらもう最悪。なんてのは嘘で、価値観は人それぞれだろう。例えとして分かりやすいから東京カメラ部を比較対象として出しただけで、東京カメラ部に特に何の恨みもありません。


僕に足りないのは狂気なのかもしれない。けれど、凡人が狂ったフリをするほど寒いものはないし、そんなのは見透かされてしまうものなので、結局の所自分は自分なりにやっていくしかない。のだけれど。

CGみたいな写真?絵?をつくる、それを黒いTシャツで頭に鉢巻巻いたラーメン店主みたいに俺の魂の一杯を喰らえ!これが作品じゃ!みたいにネットにアップする、ってなんか好きじゃないんだよな。SNS時代に写真で人気者になろうとすると、そういうやり方でやらないといけない、というのは分かるけれど。でももっとサラサラっとしていたいというか。あと、結果的にそうなってしまうのは仕方ないとして、他の人と同じような写真を撮りたくない。この構図、よく見るよね、みたいなやつ。以前から何回も書いているけれど、無意識にそういうところに影響を受けてしまうのが一番怖い。


カメラを持つと自分が何か特別な能力や才能を持っているかのように錯覚しがちだけれど、カメラって押せば写るってだけのものだから、ただ押しただけじゃ作品とは言えないし、何の意味も価値もない。機械の扱い方なんてのは当たり前の話で、それ以外の部分、とりわけファインダーの向こうにあるもの、そのもの自体が重要だ。だから通常、写真とは記録に使われるわけで。

結局の所、そんなに凄い景色や光景や瞬間が眼の前に現れることってそうそうないから、もしそういう場面に出くわした時、サッとカメラを構えて適切な設定で撮れるか、というところ。あとは、毎日通る何気ないそこら辺の道なんかから、いかに美しいものを見出していくか。つまりは着眼点と発想。


要するに、作り込まれたものよりも、リアルなものの方が僕は好きです、というだけの話で1800字近くも書いてしまった。ダラダラと長文書くの得意です。

実は、ちょっと前に書いた記事です。

世界の終わり

世界の終わりについて考える。
決して、ミッシェルガンエレファントの曲のことではないし、SEKAI NO OWARIについてでもない。ちなみに花鳥風月という曲が好きだ。あとは幻の命とか、インスタントラジオとか、眠り姫とか、RPGとか。



世界の終わり / thee michelle gun elephant




閑話休題


世界の終わりとは、即ち自分自身の死である。僕はいつどこでどうやってどのような理由でどのように死ぬのか。これはいつかは必ず訪れる、避けようのない事実である。

1年前に母親が亡くなった。末期癌だった。誰がこのような事態を想像し得ただろうか。実際にこのようなことが起こるまで、誰も想定し得なかった。加速度的に悪化し、衰弱していく母を見るのは辛かった。そして僕もあのように死んでいく可能性が高い。癌とは非常にメジャーな病気だから。

今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。いつどこでプリウスが突っ込んでくるか分からないし、通り魔に刺されるか分からないし、地震が起こったり富士山が噴火したり、とにかく何がどうなるか分からない。今後も生きていける保証などはなく、あるのは見込みだけだ。1人の人間の命など、地球規模、宇宙規模からすれば米粒みたいなものでしかない。小学生の頃、アリの手足を捥いだり、水たまりに入れて遊んでいた。一体何匹のアリを殺したか分からないけれど、働きアリの1匹が死んだところで、コロニーとしてはさして何も変わらないのと同じように、1人の人間の命などあってがもなくても変わらない。それでも地球は回っていくし、社会は回っていく。僕が死んだところで、一時的には混乱が起きたとしても、結局は誰かが代わりを務めてくれるだろう。悲しかな、人間とは誰しもが代替的な存在でしかないのだ。

一人で死にたくない、などと言う人もいるけれど、同時に崖から飛び降りて心中とかするのでなければ、死ぬときは誰しもが一人である。例えば息を引き取る瞬間、誰かに手を握っていてもらっていたとしても、死ぬのは自分だけだ。手を握っている人は死なない。死んだらどうなるのか、死ぬときってどんな感じなのかは、死んだことがないから分からないけれど、恐らく眠るのに近い感じなのではないかと推測する。眠くて眠くて、家に帰るやいなや服も着替えずにそのままベッドに倒れ込んで、昏々と12時間とか眠ってしまうときのように。その時間が12時間ではなく、永遠に続く、そして呼吸をしなくなる、二度と目覚めない、それが死。ではないかと。

別れることを考えながら付き合うことはないし、食べ終わることを考えながら食べることもないのに。でも自分がいつか終わることは常に考えてしまう。いつかは絶対に終わる。そういうことを考えながら、シャッターを切れたら良いのかもしれない。その瞬間を永遠にとっておく。しかし、そのデータなりプリントなりも、僕が死ねば全部ゴミにしかならないのだけれど。ネットに上げても、誰も見ないか見なくなるだろう。どうしようもないことだ。

Tポイントはいくら貯めても、あの世へは持っていけない。というか何も持っていけないけれど。

猫を飼うためにマンションでも買うか、どうか。レンズ買うか、くらいのノリで書いてしまっているけど、家って色々面倒。相続人が妻しかいないし、一生賃貸でも良いんじゃないかと思ってるけれど。さぁ、この先どうなるのか。いつ死ぬのか。僕の世界はいつ終わるのか。