地方都市の夕景

音楽と写真

完成

α7Sで使うレンズ軍のシステムが完成した。完成なんて大袈裟な言い方だけれど、要は超広角から(中)望遠まで揃ってしまったというだけの話だ。総額がいくらかとか、そんなことは考えてはいけない。趣味だから。最短距離で、最小限の出費でこの結論に辿り着けていたなら、などと考えることは無駄だ。歴史にifはない。自分で実際に試してみないと分からないことも沢山あるし、見えてこないものも沢山ある。例えば、グーグルマップで見るだけではなく、実際に行って歩いてみないことにはその街のことは何も分からないのと同じように。

結局は、一通り全部試してみるしかなかったのだ。何かを得るためには、何かを極めていくためには(全然極まってないけれど)、ある程度身銭を切らなければならないということ。本やネットやSNSなんかを見て知った気になったり、分かった気になっても何も身に付かないし、それでは意味がない。沼から抜け出すためには、沼にどっぷりと浸かり尽くすしかなかったのだ。

思えば、僕の3年ほどの写真歴あるいはカメラ歴というのは、常に試行錯誤の連続だった。今までの全ては、今日の結論に辿り着くまでの実験に次ぐ実験の過程だったということだ。ゆえに一つとして無駄なことはなかった。何もかもが今に繋がっているのだ。

SONY α6000とキットズームレンズから全ては始まった。明るい単焦点を買い、そのトロトロのボケ味にやられる。次にロシア製のオールドレンズの独特の描写にやられる。ヘリオス、ミール、インダスター…そして国産オールドレンズの定番タクマー。オールドレンズはAPS-Cだと中望遠になってしまうのが気になりフォーカルレデューサーなんかも導入したが、結局フルサイズが欲しくなりSONY α7Sへ乗り換える。カールツァイスとの出会い。同時にフィルムカメラにも手を出していた。実家にあったコニカのコンパクトカメラから始まり、破格で手に入れたCanon EOSkiss5がメイン機に。色んなフィルムを試す。トイカメラ、クロスプロセスなんかも試してみる。中判に憧れて二眼レフカメラ、リコーフレックスを買う。高級コンパクト、CONTAX T2なんかも買ってみる。結局リコーフレックスもT2も手放す。Lightroomの導入以降デジタルが楽しくなり、またツァイスの良さを実感しツァイス銘のレンズを色々揃えていく。その写りの綺麗さ、鮮明さに違和感を覚えまたフィルムへ。フィルムはどうしても当たり外れがあり、最高の一枚が撮れるときもあれば、飛んだり潰れたりで残念な写真になってしまうこともあった。「フィルムで撮る」ことに満足してしまっているだけでは?とまたデジタルへ。そしてまたデジタルに違和感を覚え…と周期的にデジタルとフィルムを行ったり来たりするようになる。後にいつでもどこでも持ち出せるコンデジRX100も導入。このカメラでパチパチとスナップを撮るのが楽しくて、やはり自分はデジタルだなと確信する。やがて、相次ぐフィルム銘柄の廃盤や価格高騰などもあって、フィルムからの撤退を決意。ストックしているフィルムがなくなり次第、フィルム関係の機材は売却し、α7SとRX100だけで撮っていくという完全デジタルオンリーのワークフローへ移行することに。フィルムカメラ用に買ったコシナプラナー1.4/50と、とにかく安いヤシコンゾナー2.8/135があまりに良いために再びオールドレンズ再燃。しかし結局MFに疲れ、オールドレンズの不安定さにも嫌気が指し、手堅く撮れる現代のAFレンズがベストという結論に。

僕を惑わせたのは主に2つの要素、フィルムカメラと、オールドレンズだと思っている。現代のレンズはどれもこれも良く写る。重箱の隅をつつけば弱点は色々あるにせよ、いずれも編集によってカバーできる程度の話だ。しかしフィルムカメラやオールドレンズというのはちゃんと写らないというところがスタートラインだ。曖昧さや不確実さというのが味で、それがアートだ、という世界観である。ちゃんと写らないからこそ良い(逆にちゃんと写る、優等生なオールドレンズは使い所がない)。味がある。エモい。そこら辺の要素にやられてしまった。しかしフィルムは種類が減り、高騰し、未来がないのが見えている。そしてオールドレンズとは果てしない沼である。どこかで線引きをしないと、どこかで踏み止まらないとズブズブと沈んでいくだけだ。フィルムっぽさ、オールドレンズっぽさというのは編集で、Lightroomでもある程度再現することはできる。しかし逆はできない。

書いていて気付いたけれど、やはり僕はフィルム写真とかオールドレンズの味とかが好きなのだろうなと思う。しかし、フィルムはとにかくお金がかかる。そもそもフィルムカメラを持ち出すか、デジタルを持ち出すか、と悩むのがストレスであり、両方持っていくとなると荷物が増え過ぎる。また、オールドレンズが無限に増え、機材選定に迷ったりするのは何よりも嫌だ。写真とは選択の芸術であり、汎ゆる場面で何らかの選択を強いられる。何かを選ぶとは、何かを選ばない、もとい捨てることでもある。機材は最小限にして、眼の前の被写体ともっとちゃんと向き合いたい。そういった思いから、フィルムともオールドレンズとも距離を置くことにした(まぁ今持っているヘリオスとかタクマーはたまに使うから置いておくけど、これ以上増やさないということ)。デジタルで撮った写真に敢えてノイズを足していく事にも違和感があったけれど、そこは割り切るしかない。デジタルでフィルムを再現する、で良いじゃないかと。今はそういう結論に至った。

写真とカメラの話は別、カメラのことではなく写真のことを考えよう、とずっと言っておきながら、カメラやレンズのことばかり考えてきたような気がする。しかし写真とは機材失くして撮れないものだから、そこは切っても切れない関係だ。機材のことを考えなくても良くなるくらいに、機材のことについて悩み尽くすというのは必要な期間だったのだと思う。と、散財の言い訳みたいなことを3000字近くも書いてしまった。

写真を始める前の自分は、まさか3年後にこんなことになっているとは思いもよらなかっただろう。カメラやレンズとは則ち、沼である。

幻想

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最近は、去年の冬に買ったCONTAX Sonnar2.8/135を多用している。135mmの圧倒的なボケ、圧縮効果を生かした写真を撮りたくて。
けれど、135mmでMFは被写界深度が浅くて、なかなかきついのでBatis 2.8/135が欲しくなってしまった。というか、もう買っても良いですか…?僕も妻も今が一番若いのだし、どうせ手に入れるのならできる限り早い方が良いだろう。

CONTAX Sonnar2.8/135は比較的ピントの山が見やすいレンズではあると思うけれど、一日中MFで撮っていると神経を使うから疲れる…。写りはやや古めかしい感じ?ヤシコンってみんなこうなのか?ということで、ヤシコンプラナーなんかを買って試してみたくもなったりしていた。けれど、ヤシコンプラナー1.4/50とタクマー1.4/50はほぼ同じレンズ構成で、コーティングやガラスの質を除けばほぼ同じらしい。もっと言えば、50mmF1.4のレンズって大抵ダブルガウス型だからレンズ構成はほぼ同じで、みんな似たり寄ったりなのではないかと思う。つまりは、写りも大体同じような感じになるのではないかと。

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もう、機材頼みだって良いじゃないか。出来る限り良い機材を使って、腕の無さを補う。それも一つの戦略なのではないか。結局のところ、質感や雰囲気というのは編集でいくらでも作れてしまうものなのだし。漸くオールドレンズ神話が打ち砕かれたような感じ。ここへ来て、また一つ先へ進むことができた気がする。フィルムで撮る必要もないし、ヤシコンのレンズで撮る必要もないし、プラナーで撮らなければならない理由なんていうのもどこにもない。そういったものは全て好みの問題でしかないのだ。

オールドレンズはもう全部手放しても良いくらいの気分だ。何を持ち出すか、などと悩むのが何よりも不毛。僕らは機材のことではなく、写真のことで悩むべきだ。できる限り機材は減らして、何を持ち出すか、などといった余計な悩み、迷いをなくしていくべきだ。

ああでなければならない、こうでなければならない、そういった、した覚えのない約束、呪いや思い込みの類など、全て捨ててしまえ。火をつけて。

Golden Week Flowers

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GWは色々出掛けたりダラダラしたりしていたらあっという間に終わってしまった。10連休じゃ足りない。30連休くらい欲しいなぁ。そういえば大学生の頃の夏休みとか最高だったな。まさに人生の夏休みだった。
もうあの頃のような日々には戻れない。なぜなら僕らは大人になったから。


花の写真を多く撮ったような気がするので、適当にピックアップして載せてみる。


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花の写真を沢山上げておきながら、実は花の写真を撮るのはそんなに好きではない。別に嫌いでもないけれど、そんなに好きというわけでもない。まぁ綺麗だし撮っとくか、みたいな。多分そういうところが写真にも出てしまっていると思う。やはり、自分が撮りたいのはポートレートなのだなぁと思う。勿論、妻のポートレートも沢山撮ったけどね。そちらはインスタにて。

#嫁グラフィーが賛否両論で盛り上がっている、もとい叩かれているようだけれど、ガタガタ言ってる人たちは結局の所、自分が、あるいは自分の配偶者が写真映えしないから僻んでいるだけなのではないか、と思っている。綺麗な奥さんがいる人は撮ってるでしょ。かっこいい旦那さんがいる人も。
まぁ写真を撮るのって本来記録するためであって、他人に見せるためではないし、恋人や家族の写真を撮るのなんて誰でもやっている、極々ありふれたことだろう。わざわざ#嫁グラフィーなんて今更パッケージングする必要もないわけで。何でも先に言ったもん勝ちだなぁとは思う。

SNS、とりわけインスタやツイッターに生活が支配されているような。SNS全部やめてしまえたら、楽になるのだろうか。

ザラザラした粒子の質感に惹かれるのは何故なのだろう。

まぁよく見たら分かってしまうと思うけれど、片方は僕のカメラで撮ったのをフィルム風に仕上げた写真、もう片方は妻のフィルムカメラで撮った写真。
デジタルの方、最初はいつもどおりに(デジタル)現像したのだけれど、フィルムで撮ったやつの方が、ピントが合ってないにもかかわらず、何だか良いな、と思いフィルム感を意識した現像をしてみた、という話。

Lightroomを導入した直後からフィルム風の現像ばかりしていて、むしろバキバキ系、お肌ツルツル系の現像って未だにやり方が分からないくらいなのだけれど、やはり僕はフィルム風のというか、フィルムっぽい質感の写真が好きなのだなと思った。ここ最近は、デジタル写真に敢えて粒子感を加えるということに疑問を持ち始めて、粒子感を足さない現像というのを暫くやっていた。デジタルらしいクリアな画というのも、それはそれでアリだ。けれど、やっぱり何か足りないような、なにか違うような気がしていた。いや、実際のところ、足りないのではなく、写り過ぎるのだ。デジタルカメラは鮮明に写り過ぎる。人の肌なんかは写り過ぎないほうがレタッチが楽だというのもある。ザラザラしている方が何となく雰囲気がある、という曖昧な理由も大きい。昨今のフィルムブームに乗っかって。

んー、やはりザラザラしている方が好きだ。粒子のザラザラ感に惹かれるのはなぜなのだろう。暗所で撮ったときにシャドウがぶっ潰れていく感じも好きだ。どこか懐かしくて、どこかノスタルジックで、どこか淋しげで。どこか儚い記憶のようで。
と、ポエムを書いてみたところで、どうせ僕のことだから、また気が変わって半年後くらいには「粒子感はない方が良い」、などと言い出しそうだけれど、粒子感を足したり引いたりしながら、自分の写真を追い求めて行きたい。

そういえば、フィルムかデジタルか、というのは完全に結論が出ていて、僕はデジタル派。ゆくゆくはデジタル1台でやっていくつもり。愛機SONY α7S。汎ゆる面でデジタルの方が優っているというのは分かった上で、でも冷蔵庫にまだフィルムが残っているから、たまに使っているというだけ。フィルムが無くなったら、フィルムカメラもレンズも売ってしまうつもりでいる。でも、ザラザラした質感の写真が好きなことには変わりはないから、今後も現像ではフィルムで撮ったような雰囲気に仕上げていくのだろう。いや、先のことは分からないけれど。当面は。


しかし、ザラザラした粒子の質感に惹かれるのは何故なのだろう。

March 2019

早いものでもう3月も終わりに近づいている。

何だかいつも早い早い言っているような気がして、年だなぁと思う。働き始めると人はこうなるのか。最早仕方ないのか。全然更新できていないままに春になってしまった。もっと更新のハードルを下げるためにサブのブログでも作ろうかとも思ったけれど、メインとサブを分けるほどPVがあるわけでもないので、これからはもっと気軽に適当に更新しようかと思う。ツイッターもインスタも流れていってしまうし、長文を書くのには向かないから、やはり僕はブログが好きだ。そういえばたまにインスタのキャプションに物凄い長文を書く人もいるけど、なんかあれ気持ち悪いなと思ってしまうのは僕だけだろうか…。

写真は撮っていないわけではないけれど、以前ほどこういう写真が撮りたい、という気持ち、所謂写欲がなくなってきていて、やばいなーという気持ちもある。けれど、3年近く撮っているからネタ切れするのも仕方ないよなとも思う。目が肥えてきた結果、自分の写真に満足できなくなったのかもしれない。満足してしまったら終わりだとも思うけれど。

結局のところ、インスタをはじめSNSに踊らされていたというか、そこが原動力になっていたというのは否めない。ミュート機能が導入されて以降、変に影響を受けるのが嫌で東京カメラ部とかああいったフィーチャーアカウントの類を一切見ないようにしていたのだけれど、それが良くも悪くも影響してきているのだろうか。最近はフィーチャーされることもなくなってきたし、されたいとも思わない。無関心。そういう世界線でやっていきたい人はやっていけば良いと思うし、自分は特に関わりたくもないなという。好きな写真を好きなように撮っていたい。よく分からない誰かに評価なんかされたくない。下手に褒められたくもない。仕事以外のことは好きにやらせて欲しい。
フィーチャーされる写真の傾向も分かるし、フィーチャー狙いの写真というのもなんとなくぱっと見で分かるし、そういったものに魅力も感じない。誰がどう見ても綺麗な絶景。可愛い女の子。赤ちゃん。あるいは犬猫。そういうのはもう良いよ。飽きた。写真ってそういうのだけが全てではないんじゃないか、というところを突き詰めていくのが今後の課題かもしれない。ここら辺のことはずっとずっと考えていることなのだけれど。写真の可能性、というと大袈裟だけれど、他の人が撮っているようなのと同じような写真を僕が撮る必要はないだろう。と、いいつつ、結局同じような写真を量産してしまう僕です。


3月末は年度末というのもあり、仕事が繁忙期で、月末にかけて業務量が一気に増え、止むを得ず残業をすることが増えた。それも今日で終わりだけれど、残業というのは身も心も蝕む。自分の時間がなくなる。おまけに今の職場では残業代は出ない。その代わり、普段は定時ぴったりに帰っても文句は言われないのだけれど。だから普段は、定時に上がって1時間1人カラオケをしてから家に帰り、それからジムに行って筋トレしたり走ったり、そして帰ったら寝るまでお酒を飲みながら好きな音楽を聴いて、という感じで自分の時間を過ごしている。むしろ仕事が終わってからが本当の自分の人生というか。毎日同じようなことを繰り返して、同じような動きをして、同じ場所を行ったり来たりして、ぐるぐるぐるぐると、人生は緩やかでとても長い螺旋階段のようだ。上がっていくのか、下がっていくのかは分からないけれど。でもそういったある一定のリズムの中で日々を過ごしていくのが僕は楽しくて、1人カラオケもジムもある種の求心的なトレーニングみたいな気持ちで行っているし、そのリズムが乱れてしまうのが何よりも嫌なのだ。例えば風邪を引いて喉が腫れたらカラオケには行けなくなってしまい、リズムが崩れてしまう。職場の飲み会なんかがあったら、自分の時間が減ってリズムが乱れてしまう。長時間残業しなければならないとなると、もう家に帰って寝るしか選択肢がなくなる。

そう考えると、僕が求めているのは何よりも自分の時間、自分の人生であって、どんなに給料が上がると言っても、仕事一色の人生になってしまうのは耐えられない。給料が上がっても、使う時間がなくなるのなら無意味だ。高級ブランドにも、ミシュラン幾つ星のレストランにも、車にも時計にもキャバクラにも競馬にも興味はない。心身とも健やかに、慎ましく穏やかに暮らしていきたい。そういった気持ちを叶えるために、今より良い環境があるとはとても思えない。探せばどこかにはあるのかもしれないけれど、そこに自分がリーチできる可能性となると分からない。それより今の立場を失うことによるリスクの方が大きいように思えてしまう。これも何度も何度も考えてきたことだけれど。


今年の年度末は結構忙しかった。今までで3本の指に入る程度には。去年の今頃にはもう今の家に住んでいて、妻と暮らし始めていたはずなのだけれど、去年の今頃がどんな感じだったのか全く思い出せない。思い出せないということは、然程大変でもなかったのだろうか。一番辛かった時は、毎日11時とか12時とかまで残業して、最早体力の限界、という感じで憔悴し切ってしまう程だったが。当時に比べたら今の方が経験も積んでいるし、処理能力も上がっているし、勘所みたいなのも分かっているから、もっと効率よく速く正確にこなせる自信はあるけれど、どうだろうか。


いつも通り、話はまとまらないけれど、もう桜が咲いてきた。桜って色んな種類があるのだな、なんてこと、写真をやる前には気づかなかった。普段の日常の中で、これまで見向きもしなかった、気づかなかったような些細なところから美しいものを見つけられるようになる、というのが、写真をやっていて一番良かったことだなと思う。

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桜と妻。最近妻を撮るのが以前よりもちょっとだけ上手くなったような、そうでもないような。


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何事も愚直に積み重ねていくしかない。