地方都市の夕景

音楽と写真

Kodak ULTRAMAX400で撮った写真

以前このブログ経由で結婚祝いに頂いたフィルム、Kodak ULTRAMAXを漸く使って現像したので、その写真をアップします。
フィルムを送ってくださった方、ありがとうございました。

amilamia.hateblo.jp

以下、全てカメラは妻から借りているNikon FE、レンズはコシナCarl Zeiss Planar 1.4/50ZFです。
ビックカメラでデータ化したものをLightroomで多少調整しています。


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1ロール全部ではありませんが。そして特にこれと言って特筆すべき写真があるというわけでもないのですが、日常を焼き付けておきました。

Kodak ULTRAMAX400を送って下さった方、ありがとうございました!

彼岸花

ついつい放置してしまっていた。何かあったわけでもなく、かといって何もなかったわけでもないけれど。日付見たら、丸1ヶ月書いていなかったようだ。

フィルムカメラ彼岸花を撮ってきた。構図が去年と同じだ。そして去年の写真の方が良かったような…。

最近妻のNikonFEを借りたので、そちらでも撮ったけれど、使い慣れているCanonEOSkiss5の方が良い写真が撮れていた。というか、要はレンズだな。CanonEOSkiss5では撒き餌レンズEF50mmF1.8STMを使ったのだけれど、NikonFEにはnikkor28mmF3.5が付いていた。僕には使いづらい画角だ。仕方ないので(?)、コシナプラナー50/1.4ZFを注文した。廃盤の方の中古。マウントアダプターも買ったから、NikonFEを取り上げられても、α7Sで使える。

最近はNikonCanonも、そしてPanasonicもフルサイズミラーレスを出してきて、フルサイズミラーレス戦国時代みたいになってきた。僕はずっとSONYのフルサイズミラーレスなので関係ないし、他社に乗り換えるということも100%ないけれど。
しかしなんだか、猫も杓子もハイスペックなカメラばかり出してきて、ハイスペックカメラ戦争に辟易してきた感があるので、どうせなら時代に逆行してやろう、ということで妻のNikonFEを暫く使ってみることにする。写ルンですとかを除けば、今まで使った中で最もアナログでアナクロなカメラ。というのは嘘で、NikonFEには露出計があって絞り優先オートが使えるから、以前使っていたRICOH FLEXの方がもっとアナログでアナクロだった。僕にはフルマニュアルは向かない。不便さを楽しむのには良いかもしれないけれど、ただ不便なだけだと楽しくないので、楽しむためには露出計は欲しいよね、と。

機材の話とかはアクセスしやすくて、情報が得やすいのだけれど、肝心の写真表現そのものについての情報ってなかなか得づらかったりする。特にネットだと。
だから最近は雑誌とかを買って読むようにしているのだけれど、色んな写真家の文章を読むにつけ思ったのは、なんというか、結局のところ正解ってのはなくて、言わば各々が模索していくものだから、やはり何も分からない。というか余計に分からなくなった。それとも、成功すれば、評価されれば正しかったということになる、という生存バイアスみたいな話だろうか。
NikonFEでは日常ばかりを撮っているけれど、これはあくまで記録であって作品ではない。自分の日常を切り取って他人に見せたいという気持ちはあまりない。ましてやそれを作品だなどと豪語することも到底できない。かと言って、以前のように、以前と同じような気持ちで女の子のポートレートを撮り続けていくというのも色々と難しい。一度メタな視点を持ってしまった以上は、以前と同じ気持ちで続けていくことはできない。そもそも、撮りたいと思う人がいないという問題も大きい。川島小鳥も言っていたけれど、撮りたいと思える被写体と出会えるかどうかというのは狙ってできることではない。
そうやって色々考えると、今まで撮ってきたポートレート写真というのは、あれはあれで、あの時しか撮れなかった、一生のうち、短い期間でしか作ることができなかった作品群なのかもしれない。だとすれば、一冊にまとめてみるのもアリかもしれない。とちょっと思った。

最近はまた曲を作っていて、6曲入りミニアルバムにできそうだから、年内にEPをリリースするつもりでいる。アートワークを撮らねば。そしてアー写も?


お彼岸だったからか、関係あるのか分からないけれど、最近亡くなった母がよく夢に出てくるような気がする。思えば以前は夢に出てくることはなかったような。しかし、夢の中に出てくる母もまた、決まって末期癌なのだ。状態は様々なのだけれど、恐らく記憶の中にある、何れかの状態の時の母なのだろう。発見直後の、癌患者には見えないような元気な時もあるし、終末期の黄疸が出た状態の時もある。当然夢の中なので時系列なんてなく、順番はバラバラ。蒸し返すのはやめてくれという感じだけれど、こういうのはいつまで続くのだろうか。恐らく、死ぬまで続くのだろう。若い頃の記憶だから、例え認知症になったとしても覚えているだろうし。
そういえば、さくらももこも、樹木希林も、山本キッドも癌で亡くなってしまった。二人に一人はなる病気だし、それは有名人であろうとそうでなかろうと関係ないというだけの話なのだけれど。人生は短い。作品を作ろう。

「ポトレ」

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所謂ポートレート撮影というやつ、撮影会も、個別撮影も、本質的には同じじゃね?と思い始めた(というかそんなの傍から見れば誰の眼にも明らかなのに、今更気付いた、といったところか)。赤の他人であるところの女の子を、色んな男(あるいは女)が撮っているという謎な状況。そんなのどう考えたって普通じゃないし、自然ではない。おかしい。かなり特殊な状況だ。
1人の女の子の周りにカメラ構えたおっさんが沢山群がっている、みたいな感じで、その様子が目の前で見えているか、それとも見えていないか(でもネットやSNS上では結局のところ見える)という違いだけで、どちらも本質的には変わらないだろう。

つまりは、こんなのは何でもないのだ。女の子の写真というのは視覚的に分かりやすいジャンルではあるけれど、基本的にはあまり中身はない。うまく言語化できないけれど、何かちょっと違うなと思い始めてしまった。そうなると、最早続ける理由がなくなってきた。でも、それで良いのだろうとも思う。それが正常な感覚だと思う。

僕は一体何を撮ってきたのか。そして今、これから、何を撮るべきなのか。何が撮りたいのか。ポートレートについては、これは一体何なんだ?と思いながらもずっと撮ってきた。しかし、このままだと同じことを繰り返していくだけになってしまう。続ければ続けるほど、どんどん良くなっていく、なんてことはない。ある程度撮れるようになったら、あとは同じようなことの繰り返しにしかならない気がする。そこには何かありそうで何もない。穿った見方をすれば、その「何かありそうで何もない」というのを撮るのがポートレートなのかもしれないけれど。例えばおっさんが若い女の子を撮るとした場合は、言うなれば淡い期待とか欲望とか下心とか、あるいは逆に虚しさとかだろうか。フロイトが言うところのリビドー。

とはいえ、ただ美しければ、そこに何かしらの美しさが成立していれば、それで良いのではないか。とも思える。確かにそれも一理ある。プロセスなんか関係ない。結果が、成果物が良ければそれで良い、と。確かにそうかもしれないと思う部分もあるのだけれど、やはり、そうじゃないと思うんだよなあ。だって、そこに写っているのは嘘でしかないし、それを良いと思う人がいたとしても、それはただ単に騙されているだけなのだから。それはどうしても、レベルの低い次元の話に思えてしまう。みんな、そこまで分かっていて、分かった上で写真を見ているのだろうか。ドラマとか映画みたいな感覚で?そもそも、全ての写真は本当ではないのだと言えばそうだけれど。
あるいは、みんなこういったことは全部織り込み済みで、分かった上で敢えてやっているのだろうか。他人が何を考えているかは分からないけれど。

写真を撮っていない人、普通の感覚の人にはあまり伝わらないだろうか。こういうのは。僕が思うところの、「は?」っていうポートレートの方が一般の人にはウケるんだろうなというのも凄くよく分かる。なんだか凄い写真に見える、良い写真に見える、というのも、物凄くよく分かる。そうなると、僕もそういう風に、「そういう」感じの写真を撮らなければならないのではないかと思ってしまう。しかしそれは間違いだろう。既に世界に存在しているものの劣化版を作ってどうするのだ。そして他人の欲望を自分の欲望と勘違いしてはならないし、模倣はどこまでいっても模倣でしかなくて、本家本元には勝てない。

xico.media
↑「は?」っていうポートレートの典型例。


何だかよく分からなくなってきた。ここら辺の「よく分からな」いところを、何らかの形で写真で表現できたら、それはそれで作品になるのかもしれない、とはいつも思うのだけれど。キャプションや文章とかではなく。

最終的には自分自身の表現を見つけなければならないのだ。そして、村上春樹も言っていたけれど、それにはどうしても時間がかかる。まだまだ時間はある。続けていくことが大事だ。やっていきましょう。

詐欺?

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いや、そのキットレンズじゃ絞り開放でもこんなにボケないだろ、とツッコミを入れてしまったけれど、

シークバーに隠れて見えづらい部分をよーく読むと…


「※映像内の画像はFE24-70mmF2.8GMなど別売りレンズを装着して撮影。」





詐欺だ!




敢えてFEマウントのレンズをAPS-Cで使うというのも考えづらいから、恐らくカメラもα6300ではないだろう。α7RⅡとかだと思う。



SONYは一応表記しているまだから良いけれど、

smhn.info

話題になっていたファーウェイは、一眼で撮った写真を「このスマホで撮りました」と嘘をついていたらしい。確かに、スマホのボケモードってしょぼいもんな…。でもAppleの「iPhoneで撮影」ってやつだって、iPhoneで撮ってるのか怪しいし、iPhoneで撮ってたとしても、フォトショップでかなり弄ってるから、最早それはiPhoneで撮影したと言えるのか?と思ってしまう。


というだけの記事でした。スマホでも良い写真撮れる人は尊敬する。けれど、やはりある程度まともな一眼レフ使った方がそれっぽい写真は撮りやすいし、写真というのはどこまでいっても、カメラという機材に依存するジャンルの芸術だから、より良い機材を持つに越したことはない。

でも、良い機材を持つ、使いこなせるようになる、というのはスタートラインに過ぎなくて、
そこから漸く、良い写真とは何か、という本質的なところが始まってくる。カメラを使えるようになるのと、良い写真が撮れるのというのとは全く別問題なんだよな。写真って本当に難しい。生き様がそのまま出てしまうような気がする。

SONIC MANIAに行って来た。


豊洲ピットでのマイブラの来日公演のチケットを取りっぱぐれてしまったので、この機会を逃したら次にマイブラを観れるのは何年後か分からない、もしかするともう二度と観れないかもしれない、ということで、ノリと勢いでソニックマニアに参戦してきた。チケット取ったのはなんと前日。まぁ当日券も出ていたから、余裕だったのだけれど。

仕事終わりの疲れた頭と身体で幕張メッセへ。勿論お目当は伝説のシューゲイザーバンド、マイ・ブラッディ・バレンタイン。それさえ観れれば、他はどうでも良かった。9時半くらいに海浜幕張駅に到着して、本当は持ち込みNGだけれどお酒やお菓子を買い込み、手荷物検査やIDチェックをくぐり抜け入場。この時点で正直、かなり眠かった。しかし、家でちょっと寝てから向かおう、などということをすると、最悪寝過ごしてしまう可能性があったので、多少眠くても開演時間くらいには現地に到着するようにしたかったのだ。

メインステージであるマウンテンステージでは既にコーネリアスが始まっていたけれど、特に興味もないので、チラ聴きして会場内を散策。ソニックステージではクリーン・バンディットが盛り上がっていた。他のステージではよく分からないけどDJがプレイしていた。サイレントディスコという、全員ヘッドフォンで音楽を聴きながら踊る謎の企画があったり、シャボン玉が出てたり、ミラーボールが回っていたり、とフォトスポットを一巡した後、体力温存のためマウンテンステージ後方で休む。渋谷系おじさんが終わり、ナイン・インチ・ネイルズが始まる。これがまた、圧巻のステージだった。何枚かアルバムを聴いたことがある程度のニワカだったのだけれど、イメージしていた以上に熱いロックバンドだった。この時点でも十分な爆音だったので、これから始まるマイブラがどれほどまでの轟音なのか、ちょっと恐ろしかった。一応、バンドをやっていた時に使っていた耳栓は持ってきたのだけれど。

そして時間やや押して午前2時前、ついにシューゲイザー界のカリスマ・伝説のバンド、マイ・ブラッディ・バレンタインが登場。コルム、デビー、ケヴィン、そしてキラキラのドレスに身を纏ったビリンダ、そしてサポートキーボード/ギターの女性の5人編成。1曲目から爆音。普通に音がデカ過ぎる。ボーカルはほぼ聴こえない。左右で爆音ギターがずっとガーーーと鳴っていて、真ん中でドラムとベースが爆音で鳴っているような、音の塊をずっと浴びているような感覚。後ろの方で聴いている限りは、各パートの音がはっきり聴き取れたという話らしいのだけれど、本人たちを肉眼で観たかった僕は割と前の方にいたので、ずっと全ての音がダマになってぶつかってくるような感覚だった。音のバランスがおかしいので、知っている曲でも知っている曲に聴こえなかったり、ステージ背後にずっと映し出される映像が幻想的で綺麗だったり、正にシューゲ界の神の洗礼を浴びるといった雰囲気だった。かなり異様な空間だった。しかし耳栓はなくても大丈夫なレベルではあった。最後の「You made me realize」の間奏、所謂ノイズピットでは、10分ほど爆音のノイズが掻き鳴らされ、鼓膜だけでなく全身が、内臓が震えるほどの爆音の渦の中に飲み込まれていった。飛行機のエンジンの真下にいるかのような半端ない爆音なのにもかかわらず、どこか心地よさを感じられるほどの不思議な空間で、眼を閉じると自分が今どこで何をしているのか分からなくなってしまうくらいだった。子宮の中に戻った感覚、などとよく表現されるけれど、正にそんな感じだった。

…ここはどこだ?僕は今どこで何をしているのだ?

…ああ、そうだった、僕は今マイブラのライブに来ているのだ。眼の前にはあの憧れのバンドの4人がいるのだ。それにしても、この爆音のノイズはなんて気持ちがいいのだろう。心地が良いのだろう。この時間が永遠に続けば良いのに…そんなことを思っていると、唐突にまた曲に戻って、3番のAメロが始まった。そしてあっという間に1時間ほどの演奏が終わる。「Hi」「Hello」「Thank You」殆どそれくらいしか口に出していなかったように思う。寡黙なカリスマバンドだった。爆音ではあるけれど、高音域が耳に刺さって痛い、とかいうことはなかったので、どちらかというと中音域〜低音域がピークになっているように感じた。ここら辺は緻密に計算されたサウンドデザインなのだと思う。ちなみにセットリストは豊洲ピットでの単独公演と殆ど同じだった。単独公演のダイジェストといった雰囲気。あとビリンダは綺麗だった。もう50を過ぎているというのに。そしてギターを弾いていたのは殆どケヴィンだけで、ビリンダはあまりギターを弾いていなかったのが意外だった。

お目当のマイブラが終わったから、もう帰っても良かったのだけれど、時刻は午前3時過ぎ。当然始発まではまだ時間があるから、あと2時間ほど潰さなければならない。皆、そこらへんの床に横になって寝ていた。プラチナチケットを買っていれば、専用ラウンジでゆっくりすることができたのだけれど、生憎僕は通常のチケットだ。皆と同じ様にそこらへんの床に寝転んで時間を潰すしかない。マイブラの余韻に浸りながら始発を待った。仕事終わりのサラリーマンにはオールナイトはつらい。眠い。もう何もする気が起きない。周りの目などどうでも良い。とにかく疲れた。眠い。

帰りの電車の記憶は殆どないけれど、どうにかこうにか家に帰り、夕方まで爆睡した。フェスは楽しいけれど、次の日がつらいよね。せめてオールでなければ…。でもマイブラが観れて良かった。バンドという生き物は、いつどこで活動休止したり解散したりするか分からないから、観れる時に観ておいた方が良い。後悔のない人生を。