地方都市の夕景

音楽と写真

Distagon T* FE 35mmF1.4ZA SEL35F14Zについて

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前に買ったばかりの時にも書いてますが、

amilamia.hateblo.jp

「Distagon T* FE 35mmF1.4ZA SEL35F14Z」についても、CONTAX T2と同様に検索流入からよく見られているようなので改めて書いておきます。多分持ってる人が少ないし、ネット上にも他のレンズほど情報がないのかも。
最近機材のことばっか書いてますが、正直自分自身のことじゃないから書いてて楽なんですよね。

去年末に買って、7ヶ月程使ってみた感想です。ボディはα7Sです。
どんなレンズもそうだけれど、このレンズ、良いところと悪いところがあります。
まぁ僕は機材に自分を合わせていくという考えなので、問題になることってそんなにないのだけれど。機材の癖を掴んで使いこなしましょう。

■良いところ
 ・F1.4という明るさにより、やや広角でかつボケる
 ・かなり寄れる
 ・透明感、解像感、色乗りが良い
 ・天下のカールツァイス

■悪いところ
 ・デカくて重い
 ・高い
 ・AFがやや遅い
 ・AFがやや迷う
 ・ピントリングが大きくて動きも重い

まとめるとこんな感じ。



F2。結構パースがついてます

35mmというのは標準域〜やや広角で、室内とかだと使いやすい画角かなと。好きな人も多いと思う。ポートレートで使うとなると、人物だけでなく背景もたくさん写したい時に使う感じ。これ以上広いレンズ、例えば28mmとかだと人物撮影にはちょっと歪みが気になるかなというところで、撮り方にもよるけれど、個人的な意見としては人物撮影には35mmが限度かなという感じがする。50mmだとちょっと狭い、けどボケは欲しい、という時に、やや広角かつボケるこのレンズは有難い。とはいえ、35mmでも結構パースはつくから構図には気をつけた方が良いし、歪みが気になるからあまり寄るべきではない。寄れるけど。


F1.4。被写体とあまり距離をとれない状況で重宝する。


マップカメラの商品説明には「数値化できない透明感、空気感」などと書かれていたけれど、本当にそれだと思う。「開放付近の柔らかい描写はポートレート向き」とかも書いてあったけれど、絞り開放だと描写が柔らかいと言うより、ピントが浅くなるからピンボケしやすくなると言うだけの話ではないかとも思う。開放からシャープで使えます。
流石ツァイスだけあって、色乗りは抜群。カメラとの相性、或いは編集時の僕の好みが反映されているだけかもしれないけれど、ガラスとか、コンクリートとか、やや緑~水色~グレーくらいの色の無機質なものを撮るのが向いているような気がする。というかSONYのカメラ、レンズ全般がそんなような気がしないでもない。無機質な写り。


F2.8。寄ると被写界深度がかなり浅くなる


このレンズの欠点は、何よりもデカくて重くて高い、と言う点だろう。

CanonのEF35mmF1.4も、SIGMAのART35mmf1.4も、SamyangのAF35mmF1.4も同様だけれど、35mmで明るくしようとするとどうしてもでかくて重くなってしまうようだ。そこが最大の欠点。そしてDistagon T* FE 35mmF1.4ZA SEL35F14Zについては、他社の35mmF1.4のレンズよりもちょっと高いというのも欠点(何を隠そう、僕は24回払いで買ったので未だに月々割賦金を払ってます…)。α7Sに付けると、フロントヘビーになってしまい非常にバランスが悪い。ストラップで吊るすと完全にお辞儀した状態になってしまう。なぜならボディより重いから。片手では非常に扱いづらい。手ブレします。

他の35mmのレンズだと、Nikonには35mmF1.8という丁度良いやつがあるのだけれど、SONYだと他には35mmF2.8、Canonだと35mmF2、となってしまう。後者はまだ良いけれど、前者のSONY35mmF2.8(SEL35F28Z)は…まぁ35mmでF2.8って割と標準的というかよくあるスペックではあるのだけれど、2段ほど明るくするためにはこんなにもでかくて重くて高くなってしまうのか、というところが未だに信じられない。ちなみにソニーのRX1という高級コンデジにはSonnar35mmF2というレンズが乗っていて、このレンズを単体で販売して欲しいくらいである(レンズ交換できないコンデジだからこそ設計できたレンズらしいけど)。
MFオンリーでも良いなら、コシナからDistagon35mmF1.4が出ているし、フォクトレンダーノクトン35mmF1.4という選択肢もある。ノクトンの方はサイズもかなりコンパクトだから良いと思う。自分はどうしてもAFが欲しかった。AFの効くディスタゴンは唯一これだけだから。

あとこれはカメラ側の問題というか、僕の初代α7Sでの使用時に限った話なのかもしれないけれど、AFがやや遅い。内部でレンズを沢山動かしているのだろうか。そして、他のレンズ以上に、白一色とか黒一色みたいなものだとピントが合いづらいような感覚がある。そもそもAFってそういうものだとは思うし、これはα7Sがコントラスト方式しか使えないからであって、α7ⅡとかハイブリッドAFが使える他のカメラなら問題ないのかもしれないけれど、何故か結構ピントを外すような印象がある。あとは、「ピントリングはスムーズに回る」みたいなレビューが多いけどそんなことはない。このレンズのピントリングは大きくて動きも固いのでMFはちょっとやり辛くて、地味に不便。SEL55F18Zのピントリングの回り具合が一番好き。SEL1635Zのピントリングは軽過ぎてダメ。レンズに絞りリングがあるのは、動画用ということだけれど、静止画しか撮らないから要らないなぁと。レンズ側の絞りが優先するから、A(オート)から勝手にF16になってしまっていたりして、カメラ側で絞りの制御ができなくなって「!?」ってなることがたまにある。


F1.4。先ほどと似たような構図だけれど、このレンズだからこそ撮れた一枚だと思う。


一般的に、広角レンズというのはある程度の明るさがあっても相当被写体に寄らない限りはボケない。けどこのレンズなら割と離れててもある程度のボケが得られる。と言う、ただそれだけなんですよね。一言で言えば。本当にただそれだけの違い。しかし神は細部に宿る、じゃないけど、その些細な違いって少なくとも撮影する方の感覚としてはかなり大きくて、被写体との距離感、アプローチの仕方まで変わってくるから、そこに価値があると思う人には、決して安くないけどおすすめできるレンズではある。つまりはかなりマニアックなレンズです。ボケが欲しい時は50mmとか85mmを使うから、広角にはボケなんて求めないよ、という考えなら全く無用の長物だろうと思う。

もっと言えば、レンズのスペックの細かい違いなんて使っている人にしか分からなくて、写真を見る側にはその細かい差異というのは分からないだろう。僕だって、他人が撮った写真を見せられて、このレンズで撮った写真はどれでしょう?と言われても分からないと思う。でも(繰り返しになるけれど)、その細かい違いというのは撮っている側からすれば全然細かくなんてない、大きな違いなのだ(実際にファインダーを覗いてみてもらえれば一目瞭然なのだけれど)。

少なくとも僕は、このレンズでなければ撮れない写真が必ずあると思ってます。というか実際にあったはずだと。35mmF1.4というスペックでAFが効くレンズだからこその写真が。

ということでDistagon T* FE 35mmF1.4ZA SEL35F14Zについて書いておきました。
これを読んで「買おう!」と思う人がいるかは謎だけれど、参考までに。


デカくて重くて高いけど写りは良い。

携帯性重視でいくならこれ。F2.8でも許せるなら。

MFオンリーでも良いならこれが一番良い気がする。

至高のサブカメラ、RX100

サブ機としてSONYコンデジ、RX100を購入。
今回は写真盛りだくさんでお送りします。

RX100とは、SONYが出しているコンデジ、コンパクトデジタルカメラで、小さい筐体に1インチというコンデジにしてはそこそこ大きめなセンサーを搭載しているのでコンデジにしてはそこそこ写りが良いというカメラです。今現在RX100は初代~M6(第六世代)まで出ている(あとM5Aというよく分からんやつも)。購入に際して色々調べたところ、結論から言えば自分みたいにα7シリーズ等のメインの一眼があって、サブとして使う程度なら初代RX100で十分だと思った。勿論新しい機種の方が機能も多いし、性能も良くなっているので、これ一台で何もかも撮りたい人とか、お金が余っている人は一番新しいの買えば良いとは思うけれど。
とはいえ、これはあくまでサブ機だよなぁと思う。できることは限られているし、物理的な制約も多い。言ってしまえば所詮はコンデジというか、何を撮るかにもよるけれど、どうしてもセンサーが小さいから大きいボケは作れないし、風景とかスナップ向きだなと。僕が買おうと思ったのは、治安がそんなに良くない地域に旅行に行く際に持っていくサブカメラが必要だったから。

ファインダーのあるM3とも迷ったけど、お店で実機を触った感じだとファインダーはちっちゃくて見づらかった。あと、ポップアップさせてから手前に引く、という2段階の動作が面倒だなと思ったのと、ちっちゃいパーツで作られてるから弄ってるうちに壊れそうだなとも…。そもそもコンデジでファインダー覗いてじっくり撮るということはないだろうな、というのもあったし、ファインダーを押し込むと電源が切れるという謎機能は要らない気がした。初代RX100の余計な機能のなさ、かっこよく言えばミニマルさが愛おしく感じたのと、初代が一番薄くて軽くてコンパクト、レンズの画角が28~100mmである(M3以降は24~70mm、M6は24〜200mm)というあたりが決め手となり初代にした。コンデジにはコンデジならではの使い方があるし、ちゃんと撮りたいときはα7Sを使うから、余計な機能など要らないのだ。
初代の一般的なデメリットとしては、ファインダーがない、背面液晶が動かない、Wi-Fiが使えない、といったところか。自分の場合は、ファインダーは先程書いたように要らないと思ったし、液晶が動かなくても自分が変な体勢になれば良いだけだし、自撮りはしないからOK。Wi-FiがなくてもRAWで撮ってSDカードからPCに取り込んで編集、というフローだから関係ない。

初代RX100、調べてみると大きく3つに分かれているようだ。
一つはシリアルナンバーが3から始まる最初期の世代で、「MADE IN JAPAN」となっている。これは発売当初(2012年)のもの。中古市場には多いが、年季が入っていることを意味する。その後製造されたシリアルナンバーが6から始まる世代は「MADE IN CHINA」と中国製に切り替わっている。そして2018年3月頃から流通している個体はシリアルナンバーが0から始まっており、ファームウェアが「ver.2.00」となっている。それまでの個体ではファームウェアは「1.00」か「1.10」であり、「2.00」にアップデートすることはできない。どうやら基板自体が変更されているらしい。レンズ先端の「Carl Zeiss」という記載が「ZEISS」に変更されている、という情報もあったが、これはよく分からなかった。「ZEISS」となっていながら、シリアルナンバーが古い個体などもあったので。でも「ZEISS」の記載になっているやつはほぼほぼ2018年製の新しいやつと思って間違いないかと。

参考
www.kitamura.jp

m-toolbox.net


ファインダーがあるかないか、液晶が動くかどうか、Wi-Fiがあるかないか、日本製かどうか、ファームウェア云々、全部大したことではなくて、要はコンパクトでポケットに入れられてサッと取り出してサッと撮れるかどうかだから、一番安いので良いのではないかと思った。というか安くないと雑に扱えないから、機動力が落ちるのだ。森山大道スタイルでいこう。ちなみに森山大道Nikonコンデジらしい。GRじゃないのね。


使ってみて、ちゃんと撮りたい時以外はもうこれ1台で良いんじゃないかとさえ思った。CONTAX T2なんか買うより、はじめからこちらを買っておけば良かった(あの時期はフィルムがやりたかったので、あのカメラを使うという経験を買ったという意味では悪くなかったとは思うけれど)。RX100はなによりコンパクトだし、レンズシャッターだからシャッター音が「プチ」っという感じでとても小さい。ズームもできるし、スナップには最適なカメラだ。この大きさのカメラだからこそ撮れる写真、このカメラでしか撮れない写真というのがあるなと思った。

RX100のRAWは、α7SのRAWと比べるとどうしてもダイナミックレンジがやや狭いが、実用レベルではあるかなといったところ。当たり前だけれど、α7Sと比べて色の乗り方も微妙に違う。RX100の方がややビビッドな印象を受けた。

ということで、お待たせしました。RX100の作例をご覧下さい。
ちなみにトップ画はiPhoneで撮りました。


適当なチョイスですが、コンデジならではの機動性を生かした写真が撮れているのではないでしょうか。どうでしょうか。
写真によっては、α7Sで撮ったのと区別が難しいくらいのものもあるかも。全部RAW撮りのlightroom現像です。

ちなみにRX100に関しては、伴さんのブログが一番参考になる。僕もこのブログを読んで初代RX100を買うことにしました。僕のブログなんか読むより伴さんのブログ読みましょう。youtubeも観ましょう。

vantherra.com



SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100

SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100


なお、滑りやすいのでラバーグリップは必須です。僕のは前のオーナーが付けていたらしく、初めから付いてました。ラッキー。


あと、背面液晶にはなんか貼った方が無難。


バッテリーも、1個だと不安だったので中華製のを買いました。


ということで、RX100、おすすめです。α7Sの方がさらにおすすめだけれど。

1week ago

母が亡くなってから1週間が経った。早いものだ。こうして2週間前のことになり、1ヶ月前のことになり、半年前のことになり、1年前のことになり…と、どんどん過去のことになっていくのだろうか。最後の数ヶ月は寝てばかりいて、殆ど会話をすることもできなかったけれど、そんな状態だったとしても、いるといないとでは大違いなのだなと思った。此岸と彼岸。

悲しい葬式だった。父が棺に何枚か写真を収めたのだけれど、写真ってこういう時のためにあるんだよなぁなんて思ったりした。写真=記録 というのが一般的な価値観で、自分みたいに毎日何十枚も、日によっては何百枚も撮る、なんてのはかなり異常というか。そうやって写真を趣味にしていて、沢山場数を踏んでいるからこそ、いざという時にもちゃんと撮れる、というのはあるけれど。遺影は僕が撮った写真だった。生前に母が「これが良い」と指定したのだそうだ。

母とはずっと離れて暮らしていて、毎日会うわけではなかったから、日常に変化があるわけではない。だから、ひょっとすると今もどこかで生きているんじゃないか、なんて妄想を抱いてしまうけれど、残念ながらそれはない。母はもう死んでしまったのだから。亡骸は燃やされて骨になって、壺に入れられて、部屋に置いてあるじゃないか。その現実をどういう風に受け入れたら良いのか分からない。到底受け入れられるはずがない。ポジティブに捉えることなんてできるはずがないのだから。まるで嘘みたいな話に思える。けれど、これが現実なのだ。今迄僕は何をしてきたのだろう。何だか、今まで自分がしてきたこと、今までの生き方は全て間違っていたんじゃないかとさえ思えてきてしまう。何もかも、無意味だったのではないかと。これから先、どうすれば良いのか、どう生きていけば良いのか分からない。

明日の朝目覚めたら、全てが嘘になっていたら良いのに。何度そう思ったことだろう。

僕らは何も取り戻せないし、取り返せないし、一度失ってしまった以上は、何をどうやっても、埋め合わせをすることもできない。

mother

母が旅立ちました。


少し前にも書いたけれど、去年の5月、「お腹が痛い」と病院に行ったら即検査入院に。結果、大腸癌が肝臓に転移しており、見つかった時にはステージ4で既に手遅れな状態だった。大腸の腫瘍については直ちに切除しないと腸閉塞で死んでしまうということで手術。ただ肝臓については治療不可能で、抗がん剤放射線治療は本人が望まなかったので(そもそも放射線治療はできない状態だった)、緩和ケア以外、治療は一切しないという方針だった。

同じような境遇の人の何らかの参考になるかもしれないということで、書いておきます。或いは消すかもしれないけれど。その際はご容赦下さい。
以下、今年に入ってからくらいの母親の状態を時系列で(記憶が曖昧な部分や、思い出しながら補完した部分もあるので、その点もご容赦ください)。少なくとも去年一杯くらいは日常生活に支障もなく、食事も普通に摂っていたし、買い物や犬の散歩にも行っていた。痛み止めの薬は飲んでいたけれど。徐々に癌は増えていたのだろうし、治るということはないから、確実に悪くなってはいたのだろうけれど、目に見えて変化があったのは今年に入ってからだ。


2017/12/31~2018/1/3
痩せて、体力は落ちていたが、概ね元気だった。ひょっとするとこのまま何年も生きたりするのではないか、などと甘く考えていた。あるいは今年一杯くらいは。

2/4(日)
親族顔合わせ。かなり痩せていたが、普通に食事もしていた。

3/4(日)
黄疸が出始める。最早肝臓がほぼ機能していないということの証拠なので、現実を突きつけられたようでショックだった。会う度にどんどん痩せ細っていた記憶がある。

3/18(日)、3/21(水)
黄疸がとれるかもしれないということで胆管ステントの手術。これが悪かったというか体力的にきつかったようで、一時はかなり危ない状態に。一人では歩けない、コップも持てないくらい手に力が入らない、言っていることもおかしい、眼の焦点が合わない、など。この時点ではもう、後述の結婚式までは持たないだろうという見込みだった。黄疸も逆に酷くなっていた。靴も履けないくらいに脚がパンパンに浮腫み始める。

4/8(日)、4/22(日)
叔母(母の姉)が介護に来るようになり、退院して家で過ごすようになってから少し回復した。自力で歩ける程度ではあったし、意識もはっきりしていた。少しずつ食事もできるようになっていた。

5/13(日)
僕と妻の結婚式に出席(車椅子で)。元気なふりをしていたので体力的に限界が来たのだろう、怠みが辛いということで先に帰ったが、この頃は意識もはっきりしていたし元気ではあった。

6/16(土)
かろうじてゆっくり階段の上り下りはできていた。ベッドに座っているのもつらいので大体横になっている。会話もそれなりにできた。ちょっとだけご飯を食べた後は横になっていた。意外とこのままずっと行くのではないかと思っていた。少しずつ悪化しているとはいえ。

6/24(日)
だいぶ窶れていた。黄疸も酷くなっていた。正直、結構衝撃的だった。妻もショックを受けていたようだった。二の腕、首、肩など上半身には肉が全くなくて骨と皮だけみたいな状態。なのにお腹は腹水でパンパンで、手足もパンパンに浮腫んでいる。黄疸も悪化していた。常にウトウトしている。会話もしんどそう。表情がない。訪問看護の先生から「看取りの心得」みたいな冊子を貰う。イコールあと1週間といったところらしい。もう殆どずっと、ベッドの上だけで過ごしていた。加速度的に悪化していく。先週までできていたことが今週はもうできない。
何もしてあげることができない。「何もしてあげられなくてごめんね」と母に伝えたら、「何もしてくれなくて良いよ」と返答。涙をこらえることしかできなかった。

7/1(日)
さらに怠そうで、殆ど寝てばかりいる。傾眠傾向というやつ。手足にチアノーゼも見られる。ただ一応食事はしているから、そんなにすぐに、というわけでもなさそうだが、どうだろうか。分からない。意外とこのまま行くのか…?と思いきや加速度的に悪くなっていくというのがこれまでの傾向だから不安である。もう自力でトイレに行くのも難しい。あと2週間ほどで誕生日だから、そこまで持つかどうか、というところ。これからせん妄が出たり、呼びかけても殆ど起きなくなったり、ずっと眠ったまま目覚めなくなったりするのだろうか。

7/7(土)
妻の両親が母に会いに来る予定だったが、父がヘルニアの手術のため延期に。だが延期にするとなると、もう次はないのではないかと思うけれど…。本人としては、誰にも会いたくない、こんな姿を見られたくない、とのことだから、本人の意思を尊重するということになりそうだけれど。
もう自力で歩くこともできなくなっており、介護なしでは立つことすらできなくなっていた。所謂せん妄が出ており、意識レベルが下がっている。会話が噛み合ったり、噛み合わなかったりする。自分の置かれている状況すら、分かっているのか分かっていないのか、よく分からないくらい。僕が家に着いてすぐの時は「今日は一人で来たの?」と訊かれたから、はっきりしていたのだろうけれど、帰るときには「生活は大丈夫?今はアルバイトしてるの?」と訊かれた。僕は「大丈夫だから安心して。」と答えた。恐らく大学を出てすぐの頃の話をしているのだと思われる。あるいは全然違う妄想だろうか。意識レベルにも波があるようだ。終始そんな状態だった。「排水口がどうのこうの」とか、「一本だけだよ」とか、寝言のような辻褄の合わないことを口にしていた。こうなると余命は1週間程度らしい。最早、いつまで持つか。食事も殆どしていないらしい。

7/9(月)
兄から「急激に弱っている、もうそろそろだから覚悟して」とLine。もう立ち上がることすらできなくなっているらしい。

7/13(金)
母の誕生日だったので、ケーキを買って朝からお祝いをしていた。所謂傾眠で「声をかけると目は開けるし、何か言うけどよく分からない。」状態だったらしい。しかし昼頃、「呼吸がおかしい。もうすぐ死にそう」と兄から連絡。その10分後くらいには呼吸が止まる。主治医が駆けつけ、死亡が確認された。僕が着いた頃には、死装束に着替えさせているところだった。誕生日が命日になってしまった。生没同日。何となく、そんな予感はしていたけれど、もうちょっと段階を踏んで心肺停止に至ると思っていたから、あまりにも急だった。本当にあっけなく終わってしまった。見つかってから1年と2ヶ月というところだった。
1週間程前にあまり噛み合わないやりとりをしたのが、母との最後の会話になってしまった。誰の目にも死期が近いことが明らかな、いかにも末期癌患者という風貌で、寝てばかりいて会話も覚束ない、あんな状態であったとしても、生きているのと死んでいるのとでは大違いなのだなと思った。いつかはこうなると分かってはいたけれど、現実にそうなってしまうと、今眼の前で起こっていることが現実だとは思えなかった。悪い夢でも見ているような気分で、現実味がなかった。母は向こう側に行ってしまった。例えば、止まってしまったエスカレーターを上り下りすると眼の錯覚で違和感を感じるように、寝ている人のお腹が動いていない、呼吸をしていないというのはとても不自然に感じられた。呼びかけたら眼を覚ますんじゃないかと思ったけれど、それはない。どんなに呼びかけても眼を覚ますことはない。もう母は死んでしまったのだ。意味が分からな過ぎて、理解が追いつかなくて、涙すら出なかった。握った手はぶよぶよしていて、冷たかった。



「地方都市の夕景」というタイトルにはあまり意味はないのだけれど、この「地方都市」というのは僕が18歳まで育った宇都宮のことだ。「夕景」という単語はなんとなく雰囲気でつけた(僕は雰囲気でブログを書いている)。餃子で有名だが、特にこれといって何があるわけでもない、寂れた地方都市。僕は東京に行きたかった。実家を出たかった。東京の大学に行くべく必死で勉強した。実際、東京の方が自分に合っていると思うし、一人暮らしは実家にいるより自由で気楽で良かった(今は結婚して妻と暮らしているが、部屋は別々だし、共働きなので24時間一緒にいるというわけでもなく、生活はそこまで変わらない)。東京で一人暮らしを始めてから、実家にはあまり帰らなくなった。年末年始と夏休みくらい。しかもすぐに東京に戻ってくることが多かった。10年以上、そういう状態だった。別に家族と仲が悪いとかいうことでもなく、単に実家に帰ってもすることがなくて暇だから、といった理由だった。僕はたまに帰ってくるゲスト、くらいの存在になっていただろうか。そうこうしているうちに、母の癌が見つかる。見つかった時点で完治は不可能。母の余命の件があったから、何もかも前倒しでやることになり、最初で最後の家族旅行に行った。付き合っていた彼女とも、どうせ今後もずっと付き合っていくのだから結婚しても良いだろうということで、地元宇都宮で親族だけの結婚式を挙げた。その後、生きる目標がなくなってしまったからだろうか、あるいは単に癌が進行しただけだろうか。あるいは、全ては予め決まっていたことなのかもしれない。避けられない死。それは誰もが避けられないわけだけれど、でもあまりにも早過ぎるだろう。思えば親孝行なんて何もできなかった。末っ子だということもあり、僕は割と甘やかされて育ったように思う。だから、もっと愛して欲しかった、とかは全く思わないのだけれど、僕は与えてもらうばかりで何も返すことができないまま、こんな形で終わってしまった。本当に、何もしてあげることができなかった。
生きられなかった母の分まで、こうして今日も明日も元気に生き延びること。それしかないのかもしれないし、それだけで良いのかもしれない。けれど、やり切れない思いでいっぱいだ。

癌とはなぜこの世に存在するのだろう。存在意義が分からない。犬でも猫でも癌にはなるし(死因のナンバー1らしい)、他の動物でもなるのだろうけれど、癌細胞が増殖し、やがて本人を死に至らしめるとすれば、結果として癌細胞自体も死んでしまうことになるわけだから、無意味というか自殺行為ではないか。まぁそんなことを考えても仕方がないのだけれど。生きることとか、死ぬことについてあてもなく考えることが増えた。自分もいつかは確実に死ぬ。とするならば、どう生きるべきなのか。以前はいつ死んでも良いと思っていたけれど、最近は「下らない死に方はしたくないな」などと思うようになった。逆に下らなくない死に方って何なのか分からないけれど。

この文章を読んだ皆さんに伝えたいことは2つだけ。1つ目は、親はいつか死ぬので大事にしましょうということ。2つ目は、定期的に癌検診に行きましょうということ。早期発見できればこんなようなことにはならず、何とかなる可能性が飛躍的に上がるので。


今回の記事に載せた写真は、母が亡くなった日の夕暮れの写真。とても綺麗な空だったので。

母さん、今まで育ててくれて、愛してくれてありがとう。何もしてあげられなくてごめんなさい。今の僕には写真しかなくて、でも写真があったからこそ今の奥さんと知り合えて、結婚できて、今もこうして生きているよ。多分あと50年くらいしたら会いに行くと思うから、それまで元気で。

意識低い系のまま、生き延びたい。

大学は法学部だったのだけれど、今思えば法律に興味なんて全くなかったし(今もない)、周りの学生みたいに「弁護士になりたい!」とかいう気持ちも微塵も持ち合わせていなかった。法律に興味もなく、弁護士になりたいわけでもない18歳の若者が法学部に入ったらどうなるか。当然、法律の勉強なんて真剣にやるはずがなく、当然の如く落ちぶれた(燃え尽き症候群だったというのもあった)。他の学生達と違って僕には何の目標もなかった。言わば遊ぶために大学に入ったようなもので、毎日、軽音楽部の部室で先輩たちとダラダラしていた(部室の住人たちは留年率が高かった)。何となく日々を過ごしていた。あの時代が一番楽しかったかもしれない。本当に何も考えずに生きることができたのはあの頃の短い時間だけだ。

なぜ法学部にしたのかと言われれば、(自分にとっては)そこが一番入りやすかったからだ。僕は東京に行きたかった。東京に行くには、東京の大学に受かるしかない。あまり裕福な家庭というわけでもないから、できれば学費の安い国公立大学が良い。となると、殆ど選択肢はない。その中で、自分の得意な教科の配点が高く、苦手な教科の配点が低い、つまり受かりやすいと思ったのがその大学の法学部だった。もしそれらの条件を満たしていたのが商学部だったならば商学部にしただろうし、文学部だったならば文学部にしていたと思う。体系的に何かを学びたいと思ったことがない。僕にとって勉強とはテストで点数を取るゲームでしかなかった。英語そのものにも、数学そのものにも、歴史そのものにも何の興味もなかった。もし今大学に行くなら、やはり写真学部かなというところだけれど、写真学部に行って写真についてあれこれ学んだところで、果たして写真が上手くなるのかどうかは謎である。すぐにつまらなくなって、嫌になって辞めてしまうかもしれない。あるいはそれはただの美大芸大コンプレックスみたいなものに過ぎないのかもしれない。隣の芝生は青く見えるものだ。人生とはそんなもんなのかもしれない。結局何を手に入れても、それが当たり前になってしまうと麻痺してしまう。

就職の歳、人材紹介エージェントみたいなところに何度か行ったけれど、意識が高過ぎてついていけなかった。30代までに年収何百万、40代で年収何千万、50代でなんちゃらかんちゃら、みたいなやつ。お前ら正気かよ、と思った。そもそも、そういう人が集まる業種なのかもしれない。仕事が大好き!やりがい!社会貢献!みたいな。自分とは次元が違い過ぎた。結果、何となく受けたところに受かって就職して、色々あって今の職場になった。僕は独立したいとも、そんなに年収が欲しいとも思わなかった。それなりに生活費を稼いで、それなりに暮らしていければそれで良かった。高級ブランド品にも興味はないし、車も持たないし、ギャンブルもしないし、キャバクラにも風俗にも行かないし。カメラやレンズは買うけど。でもそれもPCを新調したのとRX100を買ったのでもう欲しいものがなくなってしまった。最近は服もあまり買わない。

結局のところ、自分の好きなこと、得意なことを仕事にできるか、みたいな話で、好きなこと・得意なことと稼げることが一致している人は良いけれど、そうじゃない人はこうやって生きるしかない。「仕事はきついけど稼げる職場」みたいなところに無理して転職すれば年収は上がるかもしれないが、心身を壊して病院に行く羽目にでもなるとしたら、トータルでどちらが得なのか分からない。

d.hatena.ne.jp

まさにこれ。
僕はハードに働くのには向いていないし、自分の好きなこと・やりたいことというのは全くお金にはならない。どこでどうしていれば良かったのだろう。或いは結局の所こうなる運命だったのか。意識低い系のまま、生き延びたい。80歳くらいまで。80年も生きれば十分でしょう。最近は自殺願望とか希死念慮はないけれど、80まで健康に生きるのは難しいかもしれないな、という気持ちは何となくある。そして何より僕は癌になる可能性が高い。その前に地震で瓦礫に埋もれて死ぬとかもあり得るが。あとは自転車に乗ってる時に交通事故とか。

みんな何をそんなモチベーションにして働いているのか。実はみんな自分と同じようなもので、現代の日本では8時間×週5日働かないと生きていけないから仕方なく働いているだけなのだろうか。結婚して子供ができて住宅ローンで家を買って、となっていくと後戻りができないし、責任とか背負うものが大きくなっていくから仕方なくやっているのか。何もかも嫌になって全部投げ出して逃げたくなったりしないのだろうか。そういう人もいるのかもしれないけれど。意識低い系のまま、生き延びたい。

SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100

SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100