地方都市の夕景

音楽と写真

mother

母が旅立ちました。


少し前にも書いたけれど、去年の5月、「お腹が痛い」と病院に行ったら即検査入院に。結果、大腸癌が肝臓に転移しており、見つかった時にはステージ4で既に手遅れな状態だった。大腸の腫瘍については直ちに切除しないと腸閉塞で死んでしまうということで手術。ただ肝臓については治療不可能で、抗がん剤放射線治療は本人が望まなかったので(そもそも放射線治療はできない状態だった)、緩和ケア以外、治療は一切しないという方針だった。

同じような境遇の人の何らかの参考になるかもしれないということで、書いておきます。或いは消すかもしれないけれど。その際はご容赦下さい。
以下、今年に入ってからくらいの母親の状態を時系列で(記憶が曖昧な部分や、思い出しながら補完した部分もあるので、その点もご容赦ください)。少なくとも去年一杯くらいは日常生活に支障もなく、食事も普通に摂っていたし、買い物や犬の散歩にも行っていた。痛み止めの薬は飲んでいたけれど。徐々に癌は増えていたのだろうし、治るということはないから、確実に悪くなってはいたのだろうけれど、目に見えて変化があったのは今年に入ってからだ。


2017/12/31~2018/1/3
痩せて、体力は落ちていたが、概ね元気だった。ひょっとするとこのまま何年も生きたりするのではないか、などと甘く考えていた。あるいは今年一杯くらいは。

2/4(日)
親族顔合わせ。かなり痩せていたが、普通に食事もしていた。

3/4(日)
黄疸が出始める。最早肝臓がほぼ機能していないということの証拠なので、現実を突きつけられたようでショックだった。会う度にどんどん痩せ細っていた記憶がある。

3/18(日)、3/21(水)
黄疸がとれるかもしれないということで胆管ステントの手術。これが悪かったというか体力的にきつかったようで、一時はかなり危ない状態に。一人では歩けない、コップも持てないくらい手に力が入らない、言っていることもおかしい、眼の焦点が合わない、など。この時点ではもう、後述の結婚式までは持たないだろうという見込みだった。黄疸も逆に酷くなっていた。靴も履けないくらいに脚がパンパンに浮腫み始める。

4/8(日)、4/22(日)
叔母(母の姉)が介護に来るようになり、退院して家で過ごすようになってから少し回復した。自力で歩ける程度ではあったし、意識もはっきりしていた。少しずつ食事もできるようになっていた。

5/13(日)
僕と妻の結婚式に出席(車椅子で)。元気なふりをしていたので体力的に限界が来たのだろう、怠みが辛いということで先に帰ったが、この頃は意識もはっきりしていたし元気ではあった。

6/16(土)
かろうじてゆっくり階段の上り下りはできていた。ベッドに座っているのもつらいので大体横になっている。会話もそれなりにできた。ちょっとだけご飯を食べた後は横になっていた。意外とこのままずっと行くのではないかと思っていた。少しずつ悪化しているとはいえ。

6/24(日)
だいぶ窶れていた。黄疸も酷くなっていた。正直、結構衝撃的だった。妻もショックを受けていたようだった。二の腕、首、肩など上半身には肉が全くなくて骨と皮だけみたいな状態。なのにお腹は腹水でパンパンで、手足もパンパンに浮腫んでいる。黄疸も悪化していた。常にウトウトしている。会話もしんどそう。表情がない。訪問看護の先生から「看取りの心得」みたいな冊子を貰う。イコールあと1週間といったところらしい。もう殆どずっと、ベッドの上だけで過ごしていた。加速度的に悪化していく。先週までできていたことが今週はもうできない。
何もしてあげることができない。「何もしてあげられなくてごめんね」と母に伝えたら、「何もしてくれなくて良いよ」と返答。涙をこらえることしかできなかった。

7/1(日)
さらに怠そうで、殆ど寝てばかりいる。傾眠傾向というやつ。手足にチアノーゼも見られる。ただ一応食事はしているから、そんなにすぐに、というわけでもなさそうだが、どうだろうか。分からない。意外とこのまま行くのか…?と思いきや加速度的に悪くなっていくというのがこれまでの傾向だから不安である。もう自力でトイレに行くのも難しい。あと2週間ほどで誕生日だから、そこまで持つかどうか、というところ。これからせん妄が出たり、呼びかけても殆ど起きなくなったり、ずっと眠ったまま目覚めなくなったりするのだろうか。

7/7(土)
妻の両親が母に会いに来る予定だったが、父がヘルニアの手術のため延期に。だが延期にするとなると、もう次はないのではないかと思うけれど…。本人としては、誰にも会いたくない、こんな姿を見られたくない、とのことだから、本人の意思を尊重するということになりそうだけれど。
もう自力で歩くこともできなくなっており、介護なしでは立つことすらできなくなっていた。所謂せん妄が出ており、意識レベルが下がっている。会話が噛み合ったり、噛み合わなかったりする。自分の置かれている状況すら、分かっているのか分かっていないのか、よく分からないくらい。僕が家に着いてすぐの時は「今日は一人で来たの?」と訊かれたから、はっきりしていたのだろうけれど、帰るときには「生活は大丈夫?今はアルバイトしてるの?」と訊かれた。僕は「大丈夫だから安心して。」と答えた。恐らく大学を出てすぐの頃の話をしているのだと思われる。あるいは全然違う妄想だろうか。意識レベルにも波があるようだ。終始そんな状態だった。「排水口がどうのこうの」とか、「一本だけだよ」とか、寝言のような辻褄の合わないことを口にしていた。こうなると余命は1週間程度らしい。最早、いつまで持つか。食事も殆どしていないらしい。

7/9(月)
兄から「急激に弱っている、もうそろそろだから覚悟して」とLine。もう立ち上がることすらできなくなっているらしい。

7/13(金)
母の誕生日だったので、ケーキを買って朝からお祝いをしていた。所謂傾眠で「声をかけると目は開けるし、何か言うけどよく分からない。」状態だったらしい。しかし昼頃、「呼吸がおかしい。もうすぐ死にそう」と兄から連絡。その10分後くらいには呼吸が止まる。主治医が駆けつけ、死亡が確認された。僕が着いた頃には、死装束に着替えさせているところだった。誕生日が命日になってしまった。生没同日。何となく、そんな予感はしていたけれど、もうちょっと段階を踏んで心肺停止に至ると思っていたから、あまりにも急だった。本当にあっけなく終わってしまった。見つかってから1年と2ヶ月というところだった。
1週間程前にあまり噛み合わないやりとりをしたのが、母との最後の会話になってしまった。誰の目にも死期が近いことが明らかな、いかにも末期癌患者という風貌で、寝てばかりいて会話も覚束ない、あんな状態であったとしても、生きているのと死んでいるのとでは大違いなのだなと思った。いつかはこうなると分かってはいたけれど、現実にそうなってしまうと、今眼の前で起こっていることが現実だとは思えなかった。悪い夢でも見ているような気分で、現実味がなかった。母は向こう側に行ってしまった。例えば、止まってしまったエスカレーターを上り下りすると眼の錯覚で違和感を感じるように、寝ている人のお腹が動いていない、呼吸をしていないというのはとても不自然に感じられた。呼びかけたら眼を覚ますんじゃないかと思ったけれど、それはない。どんなに呼びかけても眼を覚ますことはない。もう母は死んでしまったのだ。意味が分からな過ぎて、理解が追いつかなくて、涙すら出なかった。握った手はぶよぶよしていて、冷たかった。



「地方都市の夕景」というタイトルにはあまり意味はないのだけれど、この「地方都市」というのは僕が18歳まで育った宇都宮のことだ。「夕景」という単語はなんとなく雰囲気でつけた(僕は雰囲気でブログを書いている)。餃子で有名だが、特にこれといって何があるわけでもない、寂れた地方都市。僕は東京に行きたかった。実家を出たかった。東京の大学に行くべく必死で勉強した。実際、東京の方が自分に合っていると思うし、一人暮らしは実家にいるより自由で気楽で良かった(今は結婚して妻と暮らしているが、部屋は別々だし、共働きなので24時間一緒にいるというわけでもなく、生活はそこまで変わらない)。東京で一人暮らしを始めてから、実家にはあまり帰らなくなった。年末年始と夏休みくらい。しかもすぐに東京に戻ってくることが多かった。10年以上、そういう状態だった。別に家族と仲が悪いとかいうことでもなく、単に実家に帰ってもすることがなくて暇だから、といった理由だった。僕はたまに帰ってくるゲスト、くらいの存在になっていただろうか。そうこうしているうちに、母の癌が見つかる。見つかった時点で完治は不可能。母の余命の件があったから、何もかも前倒しでやることになり、最初で最後の家族旅行に行った。付き合っていた彼女とも、どうせ今後もずっと付き合っていくのだから結婚しても良いだろうということで、地元宇都宮で親族だけの結婚式を挙げた。その後、生きる目標がなくなってしまったからだろうか、あるいは単に癌が進行しただけだろうか。あるいは、全ては予め決まっていたことなのかもしれない。避けられない死。それは誰もが避けられないわけだけれど、でもあまりにも早過ぎるだろう。思えば親孝行なんて何もできなかった。末っ子だということもあり、僕は割と甘やかされて育ったように思う。だから、もっと愛して欲しかった、とかは全く思わないのだけれど、僕は与えてもらうばかりで何も返すことができないまま、こんな形で終わってしまった。本当に、何もしてあげることができなかった。
生きられなかった母の分まで、こうして今日も明日も元気に生き延びること。それしかないのかもしれないし、それだけで良いのかもしれない。けれど、やり切れない思いでいっぱいだ。

癌とはなぜこの世に存在するのだろう。存在意義が分からない。犬でも猫でも癌にはなるし(死因のナンバー1らしい)、他の動物でもなるのだろうけれど、癌細胞が増殖し、やがて本人を死に至らしめるとすれば、結果として癌細胞自体も死んでしまうことになるわけだから、無意味というか自殺行為ではないか。まぁそんなことを考えても仕方がないのだけれど。生きることとか、死ぬことについてあてもなく考えることが増えた。自分もいつかは確実に死ぬ。とするならば、どう生きるべきなのか。以前はいつ死んでも良いと思っていたけれど、最近は「下らない死に方はしたくないな」などと思うようになった。逆に下らなくない死に方って何なのか分からないけれど。

この文章を読んだ皆さんに伝えたいことは2つだけ。1つ目は、親はいつか死ぬので大事にしましょうということ。2つ目は、定期的に癌検診に行きましょうということ。早期発見できればこんなようなことにはならず、何とかなる可能性が飛躍的に上がるので。


今回の記事に載せた写真は、母が亡くなった日の夕暮れの写真。とても綺麗な空だったので。

母さん、今まで育ててくれて、愛してくれてありがとう。何もしてあげられなくてごめんなさい。今の僕には写真しかなくて、でも写真があったからこそ今の奥さんと知り合えて、結婚できて、今もこうして生きているよ。多分あと50年くらいしたら会いに行くと思うから、それまで元気で。