地方都市の夕景

音楽と写真

至高のサブカメラ、RX100

サブ機としてSONYコンデジ、RX100を購入。
今回は写真盛りだくさんでお送りします。

RX100とは、SONYが出しているコンデジ、コンパクトデジタルカメラで、小さい筐体に1インチというコンデジにしてはそこそこ大きめなセンサーを搭載しているのでコンデジにしてはそこそこ写りが良いというカメラです。今現在RX100は初代~M6(第六世代)まで出ている(あとM5Aというよく分からんやつも)。購入に際して色々調べたところ、結論から言えば自分みたいにα7シリーズ等のメインの一眼があって、サブとして使う程度なら初代RX100で十分だと思った。勿論新しい機種の方が機能も多いし、性能も良くなっているので、これ一台で何もかも撮りたい人とか、お金が余っている人は一番新しいの買えば良いとは思うけれど。
とはいえ、これはあくまでサブ機だよなぁと思う。できることは限られているし、物理的な制約も多い。言ってしまえば所詮はコンデジというか、何を撮るかにもよるけれど、どうしてもセンサーが小さいから大きいボケは作れないし、風景とかスナップ向きだなと。僕が買おうと思ったのは、治安がそんなに良くない地域に旅行に行く際に持っていくサブカメラが必要だったから。

ファインダーのあるM3とも迷ったけど、お店で実機を触った感じだとファインダーはちっちゃくて見づらかった。あと、ポップアップさせてから手前に引く、という2段階の動作が面倒だなと思ったのと、ちっちゃいパーツで作られてるから弄ってるうちに壊れそうだなとも…。そもそもコンデジでファインダー覗いてじっくり撮るということはないだろうな、というのもあったし、ファインダーを押し込むと電源が切れるという謎機能は要らない気がした。初代RX100の余計な機能のなさ、かっこよく言えばミニマルさが愛おしく感じたのと、初代が一番薄くて軽くてコンパクト、レンズの画角が28~100mmである(M3以降は24~70mm、M6は24〜200mm)というあたりが決め手となり初代にした。コンデジにはコンデジならではの使い方があるし、ちゃんと撮りたいときはα7Sを使うから、余計な機能など要らないのだ。
初代の一般的なデメリットとしては、ファインダーがない、背面液晶が動かない、Wi-Fiが使えない、といったところか。自分の場合は、ファインダーは先程書いたように要らないと思ったし、液晶が動かなくても自分が変な体勢になれば良いだけだし、自撮りはしないからOK。Wi-FiがなくてもRAWで撮ってSDカードからPCに取り込んで編集、というフローだから関係ない。

初代RX100、調べてみると大きく3つに分かれているようだ。
一つはシリアルナンバーが3から始まる最初期の世代で、「MADE IN JAPAN」となっている。これは発売当初(2012年)のもの。中古市場には多いが、年季が入っていることを意味する。その後製造されたシリアルナンバーが6から始まる世代は「MADE IN CHINA」と中国製に切り替わっている。そして2018年3月頃から流通している個体はシリアルナンバーが0から始まっており、ファームウェアが「ver.2.00」となっている。それまでの個体ではファームウェアは「1.00」か「1.10」であり、「2.00」にアップデートすることはできない。どうやら基板自体が変更されているらしい。レンズ先端の「Carl Zeiss」という記載が「ZEISS」に変更されている、という情報もあったが、これはよく分からなかった。「ZEISS」となっていながら、シリアルナンバーが古い個体などもあったので。でも「ZEISS」の記載になっているやつはほぼほぼ2018年製の新しいやつと思って間違いないかと。

参考
www.kitamura.jp

m-toolbox.net


ファインダーがあるかないか、液晶が動くかどうか、Wi-Fiがあるかないか、日本製かどうか、ファームウェア云々、全部大したことではなくて、要はコンパクトでポケットに入れられてサッと取り出してサッと撮れるかどうかだから、一番安いので良いのではないかと思った。というか安くないと雑に扱えないから、機動力が落ちるのだ。森山大道スタイルでいこう。ちなみに森山大道Nikonコンデジらしい。GRじゃないのね。


使ってみて、ちゃんと撮りたい時以外はもうこれ1台で良いんじゃないかとさえ思った。CONTAX T2なんか買うより、はじめからこちらを買っておけば良かった(あの時期はフィルムがやりたかったので、あのカメラを使うという経験を買ったという意味では悪くなかったとは思うけれど)。RX100はなによりコンパクトだし、レンズシャッターだからシャッター音が「プチ」っという感じでとても小さい。ズームもできるし、スナップには最適なカメラだ。この大きさのカメラだからこそ撮れる写真、このカメラでしか撮れない写真というのがあるなと思った。

RX100のRAWは、α7SのRAWと比べるとどうしてもダイナミックレンジがやや狭いが、実用レベルではあるかなといったところ。当たり前だけれど、α7Sと比べて色の乗り方も微妙に違う。RX100の方がややビビッドな印象を受けた。

ということで、お待たせしました。RX100の作例をご覧下さい。
ちなみにトップ画はiPhoneで撮りました。


適当なチョイスですが、コンデジならではの機動性を生かした写真が撮れているのではないでしょうか。どうでしょうか。
写真によっては、α7Sで撮ったのと区別が難しいくらいのものもあるかも。全部RAW撮りのlightroom現像です。

ちなみにRX100に関しては、伴さんのブログが一番参考になる。僕もこのブログを読んで初代RX100を買うことにしました。僕のブログなんか読むより伴さんのブログ読みましょう。youtubeも観ましょう。

vantherra.com



SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100

SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100


なお、滑りやすいのでラバーグリップは必須です。僕のは前のオーナーが付けていたらしく、初めから付いてました。ラッキー。


あと、背面液晶にはなんか貼った方が無難。


バッテリーも、1個だと不安だったので中華製のを買いました。


ということで、RX100、おすすめです。α7Sの方がさらにおすすめだけれど。

1week ago

母が亡くなってから1週間が経った。早いものだ。こうして2週間前のことになり、1ヶ月前のことになり、半年前のことになり、1年前のことになり…と、どんどん過去のことになっていくのだろうか。最後の数ヶ月は寝てばかりいて、殆ど会話をすることもできなかったけれど、そんな状態だったとしても、いるといないとでは大違いなのだなと思った。此岸と彼岸。

悲しい葬式だった。父が棺に何枚か写真を収めたのだけれど、写真ってこういう時のためにあるんだよなぁなんて思ったりした。写真=記録 というのが一般的な価値観で、自分みたいに毎日何十枚も、日によっては何百枚も撮る、なんてのはかなり異常というか。そうやって写真を趣味にしていて、沢山場数を踏んでいるからこそ、いざという時にもちゃんと撮れる、というのはあるけれど。遺影は僕が撮った写真だった。生前に母が「これが良い」と指定したのだそうだ。

母とはずっと離れて暮らしていて、毎日会うわけではなかったから、日常に変化があるわけではない。だから、ひょっとすると今もどこかで生きているんじゃないか、なんて妄想を抱いてしまうけれど、残念ながらそれはない。母はもう死んでしまったのだから。亡骸は燃やされて骨になって、壺に入れられて、部屋に置いてあるじゃないか。その現実をどういう風に受け入れたら良いのか分からない。到底受け入れられるはずがない。ポジティブに捉えることなんてできるはずがないのだから。まるで嘘みたいな話に思える。けれど、これが現実なのだ。今迄僕は何をしてきたのだろう。何だか、今まで自分がしてきたこと、今までの生き方は全て間違っていたんじゃないかとさえ思えてきてしまう。何もかも、無意味だったのではないかと。これから先、どうすれば良いのか、どう生きていけば良いのか分からない。

明日の朝目覚めたら、全てが嘘になっていたら良いのに。何度そう思ったことだろう。

僕らは何も取り戻せないし、取り返せないし、一度失ってしまった以上は、何をどうやっても、埋め合わせをすることもできない。

mother

母が旅立ちました。


少し前にも書いたけれど、去年の5月、「お腹が痛い」と病院に行ったら即検査入院に。結果、大腸癌が肝臓に転移しており、見つかった時にはステージ4で既に手遅れな状態だった。大腸の腫瘍については直ちに切除しないと腸閉塞で死んでしまうということで手術。ただ肝臓については治療不可能で、抗がん剤放射線治療は本人が望まなかったので(そもそも放射線治療はできない状態だった)、緩和ケア以外、治療は一切しないという方針だった。

同じような境遇の人の何らかの参考になるかもしれないということで、書いておきます。或いは消すかもしれないけれど。その際はご容赦下さい。
以下、今年に入ってからくらいの母親の状態を時系列で(記憶が曖昧な部分や、思い出しながら補完した部分もあるので、その点もご容赦ください)。少なくとも去年一杯くらいは日常生活に支障もなく、食事も普通に摂っていたし、買い物や犬の散歩にも行っていた。痛み止めの薬は飲んでいたけれど。徐々に癌は増えていたのだろうし、治るということはないから、確実に悪くなってはいたのだろうけれど、目に見えて変化があったのは今年に入ってからだ。


2017/12/31~2018/1/3
痩せて、体力は落ちていたが、概ね元気だった。ひょっとするとこのまま何年も生きたりするのではないか、などと甘く考えていた。あるいは今年一杯くらいは。

2/4(日)
親族顔合わせ。かなり痩せていたが、普通に食事もしていた。

3/4(日)
黄疸が出始める。最早肝臓がほぼ機能していないということの証拠なので、現実を突きつけられたようでショックだった。会う度にどんどん痩せ細っていた記憶がある。

3/18(日)、3/21(水)
黄疸がとれるかもしれないということで胆管ステントの手術。これが悪かったというか体力的にきつかったようで、一時はかなり危ない状態に。一人では歩けない、コップも持てないくらい手に力が入らない、言っていることもおかしい、眼の焦点が合わない、など。この時点ではもう、後述の結婚式までは持たないだろうという見込みだった。黄疸も逆に酷くなっていた。靴も履けないくらいに脚がパンパンに浮腫み始める。

4/8(日)、4/22(日)
叔母(母の姉)が介護に来るようになり、退院して家で過ごすようになってから少し回復した。自力で歩ける程度ではあったし、意識もはっきりしていた。少しずつ食事もできるようになっていた。

5/13(日)
僕と妻の結婚式に出席(車椅子で)。元気なふりをしていたので体力的に限界が来たのだろう、怠みが辛いということで先に帰ったが、この頃は意識もはっきりしていたし元気ではあった。

6/16(土)
かろうじてゆっくり階段の上り下りはできていた。ベッドに座っているのもつらいので大体横になっている。会話もそれなりにできた。ちょっとだけご飯を食べた後は横になっていた。意外とこのままずっと行くのではないかと思っていた。少しずつ悪化しているとはいえ。

6/24(日)
だいぶ窶れていた。黄疸も酷くなっていた。正直、結構衝撃的だった。妻もショックを受けていたようだった。二の腕、首、肩など上半身には肉が全くなくて骨と皮だけみたいな状態。なのにお腹は腹水でパンパンで、手足もパンパンに浮腫んでいる。黄疸も悪化していた。常にウトウトしている。会話もしんどそう。表情がない。訪問看護の先生から「看取りの心得」みたいな冊子を貰う。イコールあと1週間といったところらしい。もう殆どずっと、ベッドの上だけで過ごしていた。加速度的に悪化していく。先週までできていたことが今週はもうできない。
何もしてあげることができない。「何もしてあげられなくてごめんね」と母に伝えたら、「何もしてくれなくて良いよ」と返答。涙をこらえることしかできなかった。

7/1(日)
さらに怠そうで、殆ど寝てばかりいる。傾眠傾向というやつ。手足にチアノーゼも見られる。ただ一応食事はしているから、そんなにすぐに、というわけでもなさそうだが、どうだろうか。分からない。意外とこのまま行くのか…?と思いきや加速度的に悪くなっていくというのがこれまでの傾向だから不安である。もう自力でトイレに行くのも難しい。あと2週間ほどで誕生日だから、そこまで持つかどうか、というところ。これからせん妄が出たり、呼びかけても殆ど起きなくなったり、ずっと眠ったまま目覚めなくなったりするのだろうか。

7/7(土)
妻の両親が母に会いに来る予定だったが、父がヘルニアの手術のため延期に。だが延期にするとなると、もう次はないのではないかと思うけれど…。本人としては、誰にも会いたくない、こんな姿を見られたくない、とのことだから、本人の意思を尊重するということになりそうだけれど。
もう自力で歩くこともできなくなっており、介護なしでは立つことすらできなくなっていた。所謂せん妄が出ており、意識レベルが下がっている。会話が噛み合ったり、噛み合わなかったりする。自分の置かれている状況すら、分かっているのか分かっていないのか、よく分からないくらい。僕が家に着いてすぐの時は「今日は一人で来たの?」と訊かれたから、はっきりしていたのだろうけれど、帰るときには「生活は大丈夫?今はアルバイトしてるの?」と訊かれた。僕は「大丈夫だから安心して。」と答えた。恐らく大学を出てすぐの頃の話をしているのだと思われる。あるいは全然違う妄想だろうか。意識レベルにも波があるようだ。終始そんな状態だった。「排水口がどうのこうの」とか、「一本だけだよ」とか、寝言のような辻褄の合わないことを口にしていた。こうなると余命は1週間程度らしい。最早、いつまで持つか。食事も殆どしていないらしい。

7/9(月)
兄から「急激に弱っている、もうそろそろだから覚悟して」とLine。もう立ち上がることすらできなくなっているらしい。

7/13(金)
母の誕生日だったので、ケーキを買って朝からお祝いをしていた。所謂傾眠で「声をかけると目は開けるし、何か言うけどよく分からない。」状態だったらしい。しかし昼頃、「呼吸がおかしい。もうすぐ死にそう」と兄から連絡。その10分後くらいには呼吸が止まる。主治医が駆けつけ、死亡が確認された。僕が着いた頃には、死装束に着替えさせているところだった。誕生日が命日になってしまった。生没同日。何となく、そんな予感はしていたけれど、もうちょっと段階を踏んで心肺停止に至ると思っていたから、あまりにも急だった。本当にあっけなく終わってしまった。見つかってから1年と2ヶ月というところだった。
1週間程前にあまり噛み合わないやりとりをしたのが、母との最後の会話になってしまった。誰の目にも死期が近いことが明らかな、いかにも末期癌患者という風貌で、寝てばかりいて会話も覚束ない、あんな状態であったとしても、生きているのと死んでいるのとでは大違いなのだなと思った。いつかはこうなると分かってはいたけれど、現実にそうなってしまうと、今眼の前で起こっていることが現実だとは思えなかった。悪い夢でも見ているような気分で、現実味がなかった。母は向こう側に行ってしまった。例えば、止まってしまったエスカレーターを上り下りすると眼の錯覚で違和感を感じるように、寝ている人のお腹が動いていない、呼吸をしていないというのはとても不自然に感じられた。呼びかけたら眼を覚ますんじゃないかと思ったけれど、それはない。どんなに呼びかけても眼を覚ますことはない。もう母は死んでしまったのだ。意味が分からな過ぎて、理解が追いつかなくて、涙すら出なかった。握った手はぶよぶよしていて、冷たかった。



「地方都市の夕景」というタイトルにはあまり意味はないのだけれど、この「地方都市」というのは僕が18歳まで育った宇都宮のことだ。「夕景」という単語はなんとなく雰囲気でつけた(僕は雰囲気でブログを書いている)。餃子で有名だが、特にこれといって何があるわけでもない、寂れた地方都市。僕は東京に行きたかった。実家を出たかった。東京の大学に行くべく必死で勉強した。実際、東京の方が自分に合っていると思うし、一人暮らしは実家にいるより自由で気楽で良かった(今は結婚して妻と暮らしているが、部屋は別々だし、共働きなので24時間一緒にいるというわけでもなく、生活はそこまで変わらない)。東京で一人暮らしを始めてから、実家にはあまり帰らなくなった。年末年始と夏休みくらい。しかもすぐに東京に戻ってくることが多かった。10年以上、そういう状態だった。別に家族と仲が悪いとかいうことでもなく、単に実家に帰ってもすることがなくて暇だから、といった理由だった。僕はたまに帰ってくるゲスト、くらいの存在になっていただろうか。そうこうしているうちに、母の癌が見つかる。見つかった時点で完治は不可能。母の余命の件があったから、何もかも前倒しでやることになり、最初で最後の家族旅行に行った。付き合っていた彼女とも、どうせ今後もずっと付き合っていくのだから結婚しても良いだろうということで、地元宇都宮で親族だけの結婚式を挙げた。その後、生きる目標がなくなってしまったからだろうか、あるいは単に癌が進行しただけだろうか。あるいは、全ては予め決まっていたことなのかもしれない。避けられない死。それは誰もが避けられないわけだけれど、でもあまりにも早過ぎるだろう。思えば親孝行なんて何もできなかった。末っ子だということもあり、僕は割と甘やかされて育ったように思う。だから、もっと愛して欲しかった、とかは全く思わないのだけれど、僕は与えてもらうばかりで何も返すことができないまま、こんな形で終わってしまった。本当に、何もしてあげることができなかった。
生きられなかった母の分まで、こうして今日も明日も元気に生き延びること。それしかないのかもしれないし、それだけで良いのかもしれない。けれど、やり切れない思いでいっぱいだ。

癌とはなぜこの世に存在するのだろう。存在意義が分からない。犬でも猫でも癌にはなるし(死因のナンバー1らしい)、他の動物でもなるのだろうけれど、癌細胞が増殖し、やがて本人を死に至らしめるとすれば、結果として癌細胞自体も死んでしまうことになるわけだから、無意味というか自殺行為ではないか。まぁそんなことを考えても仕方がないのだけれど。生きることとか、死ぬことについてあてもなく考えることが増えた。自分もいつかは確実に死ぬ。とするならば、どう生きるべきなのか。以前はいつ死んでも良いと思っていたけれど、最近は「下らない死に方はしたくないな」などと思うようになった。逆に下らなくない死に方って何なのか分からないけれど。

この文章を読んだ皆さんに伝えたいことは2つだけ。1つ目は、親はいつか死ぬので大事にしましょうということ。2つ目は、定期的に癌検診に行きましょうということ。早期発見できればこんなようなことにはならず、何とかなる可能性が飛躍的に上がるので。


今回の記事に載せた写真は、母が亡くなった日の夕暮れの写真。とても綺麗な空だったので。

母さん、今まで育ててくれて、愛してくれてありがとう。何もしてあげられなくてごめんなさい。今の僕には写真しかなくて、でも写真があったからこそ今の奥さんと知り合えて、結婚できて、今もこうして生きているよ。多分あと50年くらいしたら会いに行くと思うから、それまで元気で。

意識低い系のまま、生き延びたい。

大学は法学部だったのだけれど、今思えば法律に興味なんて全くなかったし(今もない)、周りの学生みたいに「弁護士になりたい!」とかいう気持ちも微塵も持ち合わせていなかった。法律に興味もなく、弁護士になりたいわけでもない18歳の若者が法学部に入ったらどうなるか。当然、法律の勉強なんて真剣にやるはずがなく、当然の如く落ちぶれた(燃え尽き症候群だったというのもあった)。他の学生達と違って僕には何の目標もなかった。言わば遊ぶために大学に入ったようなもので、毎日、軽音楽部の部室で先輩たちとダラダラしていた(部室の住人たちは留年率が高かった)。何となく日々を過ごしていた。あの時代が一番楽しかったかもしれない。本当に何も考えずに生きることができたのはあの頃の短い時間だけだ。

なぜ法学部にしたのかと言われれば、(自分にとっては)そこが一番入りやすかったからだ。僕は東京に行きたかった。東京に行くには、東京の大学に受かるしかない。あまり裕福な家庭というわけでもないから、できれば学費の安い国公立大学が良い。となると、殆ど選択肢はない。その中で、自分の得意な教科の配点が高く、苦手な教科の配点が低い、つまり受かりやすいと思ったのがその大学の法学部だった。もしそれらの条件を満たしていたのが商学部だったならば商学部にしただろうし、文学部だったならば文学部にしていたと思う。体系的に何かを学びたいと思ったことがない。僕にとって勉強とはテストで点数を取るゲームでしかなかった。英語そのものにも、数学そのものにも、歴史そのものにも何の興味もなかった。もし今大学に行くなら、やはり写真学部かなというところだけれど、写真学部に行って写真についてあれこれ学んだところで、果たして写真が上手くなるのかどうかは謎である。すぐにつまらなくなって、嫌になって辞めてしまうかもしれない。あるいはそれはただの美大芸大コンプレックスみたいなものに過ぎないのかもしれない。隣の芝生は青く見えるものだ。人生とはそんなもんなのかもしれない。結局何を手に入れても、それが当たり前になってしまうと麻痺してしまう。

就職の歳、人材紹介エージェントみたいなところに何度か行ったけれど、意識が高過ぎてついていけなかった。30代までに年収何百万、40代で年収何千万、50代でなんちゃらかんちゃら、みたいなやつ。お前ら正気かよ、と思った。そもそも、そういう人が集まる業種なのかもしれない。仕事が大好き!やりがい!社会貢献!みたいな。自分とは次元が違い過ぎた。結果、何となく受けたところに受かって就職して、色々あって今の職場になった。僕は独立したいとも、そんなに年収が欲しいとも思わなかった。それなりに生活費を稼いで、それなりに暮らしていければそれで良かった。高級ブランド品にも興味はないし、車も持たないし、ギャンブルもしないし、キャバクラにも風俗にも行かないし。カメラやレンズは買うけど。でもそれもPCを新調したのとRX100を買ったのでもう欲しいものがなくなってしまった。最近は服もあまり買わない。

結局のところ、自分の好きなこと、得意なことを仕事にできるか、みたいな話で、好きなこと・得意なことと稼げることが一致している人は良いけれど、そうじゃない人はこうやって生きるしかない。「仕事はきついけど稼げる職場」みたいなところに無理して転職すれば年収は上がるかもしれないが、心身を壊して病院に行く羽目にでもなるとしたら、トータルでどちらが得なのか分からない。

d.hatena.ne.jp

まさにこれ。
僕はハードに働くのには向いていないし、自分の好きなこと・やりたいことというのは全くお金にはならない。どこでどうしていれば良かったのだろう。或いは結局の所こうなる運命だったのか。意識低い系のまま、生き延びたい。80歳くらいまで。80年も生きれば十分でしょう。最近は自殺願望とか希死念慮はないけれど、80まで健康に生きるのは難しいかもしれないな、という気持ちは何となくある。そして何より僕は癌になる可能性が高い。その前に地震で瓦礫に埋もれて死ぬとかもあり得るが。あとは自転車に乗ってる時に交通事故とか。

みんな何をそんなモチベーションにして働いているのか。実はみんな自分と同じようなもので、現代の日本では8時間×週5日働かないと生きていけないから仕方なく働いているだけなのだろうか。結婚して子供ができて住宅ローンで家を買って、となっていくと後戻りができないし、責任とか背負うものが大きくなっていくから仕方なくやっているのか。何もかも嫌になって全部投げ出して逃げたくなったりしないのだろうか。そういう人もいるのかもしれないけれど。意識低い系のまま、生き延びたい。

SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100

SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100

深夜にだらだらとネットを見るのが好きだ

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写真やカメラに関すること、PCに関することなど、何か調べ物をしている時もあるし、或いは特にあてもなくネットサーフィンをしているだけの時もある。大抵、後者だけれど。ヘッドフォンで音楽を聴きながら。ほぼ毎晩。

何が直接のきっかけだろうか。恐らく最近よく実家に帰っているから、そのせいなのかもしれないけれど、高校生くらいの時のことを思い出すことが多い。実家にいたのは18歳の時までで、僕が実家を出てから実家は2回引っ越しているから、今の実家は実家であって実家ではないのだけれど…「実家」という単語を使い過ぎて段々意味不明な文章になってきたが、それはさておき、型落ちのノートPC(VAIO)を父親に買ってもらい、実家にネット環境が整ったのは確か高校2年の時だった。もう10数年前のことだけれど、その頃から何も変わってはいない。当時高校生だった僕は夜な夜なノートPCに向かい、インターネットを見たり、オンラインゲームをやったり、MSNメッセンジャーで友人とチャットしたり、はたまた(大きな声では言えないが)ファイル共有ソフトに手を出したり、等、よく夜更かしをしていた。流石に受験の直前は控えていたけれど。

30代になった今では、大抵酒を飲みながらだけれど、やっていることは大体同じだ。相も変わらず、こうして僕は夜な夜なノートPCに向かって、こんな内容のないブログを書いたりなどしている。RAW形式で撮った写真のデジタル現像をしたりもしている、というのはちょっとした進歩かもしれない。そう言えば、なぜか常にノートPCだった。持ち歩くことなんてないのだから、デスクトップでも良かったのに。最初は型落ちのVAIO、大学を卒業してからそれが壊れてしまい、新たに買ったのはASUSの3万円くらいの激安ノートPC。次が親父から譲り受けたMacBook Air、そしてこの前買った中古のMacBook Pro。これで4台目。
ちなみにMacBook Proは突然起動しなくなったり(セーフブートしたら直って、原因も特定できた)、Wi-Fiに繋がらなくなったり(SMCリセットしたら直った)、大丈夫かよ…という感じもあるけれど何とかやっていっている。やっていきましょう。

思えば、インターネットがあったからこそ今の僕がある。公立高校はある程度の遅刻や欠席があっても卒業できる、といった情報は2ch(当時)の大学受験板で得た知識だ。結果、僕はギリギリまで高校の授業をサボることで浪人生並みの勉強時間を捻出し、図書館や予備校の自習室に通い詰めて勉強した結果、志望校に現役合格することができた。ファイル共有ソフトのおかげで色んな音楽を聴くことができたからこそ…否、この話はやめておこう。インターネットを通じて知り合った人も沢山いるし…最近の話では、妻と知り合えたのもインターネットというかSNSがあったからだ。インターネット万歳。ちなみに出会い系アプリとかではなく、ツイッターとインスタグラム。

この前の土曜の夜、妻と食事に出かけて、散歩しながら家に帰ってきたところで猛烈な眠気に襲われ、倒れるように眠ってしまった。眼を覚ましたら1時過ぎで、それから眠れなくなってしまったので、いつものように缶チューハイを飲みながらインターネットを見ていた。外が段々明るくなって来た頃、眠くなってきたので眠ることにした。我ながら、何とも自由な生活だ。大学生の頃を思い出した。大学1年とか2年の頃の夏休みはずっとこんな調子だった。一人で酒を飲みながらだらだらインターネットを見る時間とは、至福の時である。高校生の頃は、夜中の3時とか4時とかまでボンバーマンオンラインをやっていて親に怒られたりしていたな…。でも上京して一人暮らしになってからは自由だった。それは今でも大体同じだ。夜は静かだし、みんな寝ているから他の誰にも邪魔されない。誰かからメールが来ることもないし、電話がかかってくることもない。静謐で平和な世界。永遠に夜が続けば良いのに。みんなは眠り続け、僕は只管だらだらと酒を飲みながらネットをする。でも朝は来てしまう。また一日が始まってしまう。そしてまた仕事に行かなければならない。楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。なんて切ないのだろう。

夜は死んだんだ。いくら呼んでも帰っては来ないんだ。もうあの時間は終わって、君も人生と向き合う時なんだ 。