地方都市の夕景

音楽と写真

「enterrement entertainment」に寄せて(追記あり)

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僕がやっているバンド、もといソロプロジェクトであるamilamia(アミラミア)が初のデジタルEPをリリースしました。
まずはBandcamp及びSoundcloudでの配信になります。いずれも無料でDLできるので聴いてみて下さい。
今後Apple MusicやSpotifyなど各種サブスクリプションにも対応するかも。しないかも。


追記:Apple Musicをはじめ各種サブスクでも配信開始しました。
リードトラック「gaze」1曲だけですが。

Gaze - Single

Gaze - Single

  • amilamia
  • ロック
  • ¥150



soundcloud.com


今作のリリースにあたり(誰にも求められていませんが、自分のために)セルフライナーノーツを書きます。

元々EPあるいはミニアルバムという構想があったわけではなく、日々の合間に作っていた曲が貯まってきた(最近、日常的に曲は作っていた)ので、これを機に一枚の(厳密には盤としての形は存在しないけれど)アルバムとして形にしてみよう、とふと思い立った。確か、最初に作ったのはmiraiという曲だけれど、この曲のオケを録ったのはまだ一人暮らしだった頃だから、恐らく去年の冬だったはず。

それからEPなら6曲は欲しいな、というところで、曲を作ったりボツにしたりしていく中で、この6曲になり、それぞれを仕上げていくうちにだんだん6曲を通じたテーマ的なもの、通底するものが見えてきた。

これは7月に亡くなった母に捧げるEPだ。と言うと、ちょっと嘘になってしまう。この6曲の中で歌われている内容としては、勿論そういう要素もある。タイトルからしてそうだし、露骨にそれを意識した歌詞も出てくるけれど、悲しみとか喪失感そのものだけが創作の原動力となったわけではなく、どちらかと言うとそれも含めた最近の身の回りの環境の変化や日々の移ろいの中で、自分が何を感じて生きてきたか、みたいなところをパッケージングした、と言った方が正確な気がする。だから、ある意味でこのEPは今現在の僕そのものだ。僕が死んだら、このEPを僕そのものだと思って聴いて欲しい。しかし、これが遺作になってしまうのは納得がいかない。もっともっと良い作品を生み出す為に、僕は前を向いて生きていく。といった内容のEPである。必聴である(いつも通り、特に反響はないけれど)。

「enterrement」とは、フランス語で「埋葬」の意味。直訳すれば「埋葬エンターテイメント」。このEPが生まれた直接的な動機としては、やはり母の死という要因が大きい。それに起因して生まれた楽曲群、という意味でこのタイトルにした。それを楽しんでいるかのような、ちょっと自嘲的な意味合いにも捉えられる。

アートワークは渋谷の風景。ハロウィンの日にリリースしたので、ハロウィンといえば渋谷。いうのは後付で、実は何となく適当にチョイスしました。
以下、全曲の解説です。


01.mirai
僕が知りたいのは芸能人が不倫しただの、麻薬やって捕まっただの、そんなどうでも良い話ではなくて、僕自身の未来のこと、明日のことだ。という内容の曲。歌詞そのままだけれど。サビは2コードでどこまでもストレートな感じを目指したつもり。こだまみたいなサビのディレイは、エフェクトを弄っていたら、たまたま、ああいう形になって、そのまま採用した。所々、PELICAN FANCLUBを意識した。

02.kurtosis
自己嫌悪がテーマ。イントロからの不協和音っぽいリフを何となく思いついて、それに肉付けしていった結果、16ビートの尖った曲に仕上がった。全体的に、pollyへのオマージュ。

03.water
3曲目には、当初はニルヴァーナみたいな激しめの曲が入る予定だったのだけれど、ボツになってこの曲に差し替えた。今回は激しい曲が多めなので、真ん中に落とし所があった方が良いだろうということで、敢えてキーも低く、音数も少なく、ギターも一切歪ませずにクリーントーンで。最後の水のような音はギターで出しています。あとはART-SCHOOLへのオマージュ。

04.gaze
お家芸の男女混成ボーカル(風)シューゲイズナンバー。RIDE×MBVといったところか。メロディと歌詞が同時にできたので、歌詞にはやや支離滅裂感はあるかもしれないけれど、個人的に一番気に入っている曲。3曲目を敢えて地味な曲にして、アウトロを長めにしたのも、この曲のイントロがやたら長めなのも、つまりはそういうこと。余白を配置するというのは、アルバム単位でのリリースだからできたことだし、今までにはなかった発想だった。ちなみにラブソングではありません。

05.silent blue
以前からあった曲だけれど、色々問題があったのでボツになっていた。結構気に入っていたのもあり、いつかやり直したいとは思っていたので、ここで再録して再び陽の目を浴びさせることに。曲後半には歌を乗せるというアイディアもあったのだけれど、前半の激しさや次の曲のことを考えて、敢えてインストにした。魂のアドリブギターソロを聴いてください。ドラムの手数の多さとか、何となくCOTDを意識した。

06.hiking
アルペジオのフレーズがお気に入り。本家がピクニックなら、僕はハイキングにしようと。勿論、敬愛するTHE NOVEMBERSへのオマージュ。



荒削りな部分も多いけれど、この作品を完成させることができて良かった。

僕は作品を生み出すためだけに生きている、と言っても過言ではない。仕事ができるわけでもないし、年収が高いわけでもない。他人と接するのは苦手だし、バンドさえも上手く続けることができなかった。それでも、自分の作りたいものを、脳内にあるものを、どうにかして、何とかして形にして、この世に残すこと。そのために今日も明日も生きよう。

フィルムブーム

結婚式の時に写ルンですを大量に買ってゲストに配り、撮影してもらったのだけれど(その写真を元にフォトブックも作った)、その時の余りの写ルンですがまだ残っており、しかし僕は写ルンですの写りがあまり好きではないので、なかなか使い切れなくて困っていた。
結局、レンズを塞いで27回シャッターを切り、フィルムを全部巻き上げ、本体を破壊して中のフィルムを取り出した。フィルムピッカーでベロを出したので、フィルムだけを他のカメラで使うことにする。写ルンですファンに怒られそうな罪深き行為だ。

ここ最近自分の中でフィルムブームなのだけれど、いつも現像に出しているビックカメラの自動補正がここの所どうもおかしくなってしまったようで(或いは大量のデジタル現像をしていく中で自分の眼が肥えてしまった?)、以前よりも色味が転びがちな気がしている。全体的にマゼンタ寄りになる傾向があるような。特に酷いのは、照明が電球色の室内で撮った写真が異様に真っ黄色になってしまうという事象。そしてハイライトが白飛びしがち。シャドウが黒潰れしがち(これらは所謂「フィルム感」なのかもしれないけれど)。結局自分でLightroomで補正しているのだけれど、果たしてこれは僕の仕事なのか…?結局自分で弄ってしまうのなら、最初から普通にデジタルで撮った方が良くないか?などと思い始めてしまっている。こうしてフィルムブームは終焉し、またデジタルに戻る。何枚でも撮れるし、色味も質感もLightroomで思い通りにできるし、と。そして、デジタルのあまりの便利さ、思い通りに行き過ぎて予定調和な感じの写真しか撮れないことに違和感を感じて、またフィルムで撮り始めて…と繰り返していくのがいつものパターン。とりあえず、フィルムの現像は別のお店に出してみることにするか。

フィルムは現像するまでどんな写真が撮れているか分からないし、予想外に良く撮れていたりすることもある。逆に、失敗も多々ある。その「読めなさ」というのがフィルムの醍醐味の一つだろう。しかし、フィルムの方こそ、慎重に撮ろうとしてしまうが故に予定調和な感じの写真しか撮れていないのではないか、とも最近思う。おまけに最近使っているNikon FEというカメラはMFオンリーなのでピント合わせにも時間がかかるし、尚更だ。フィルムで撮りたいなら、使い慣れているCanon EOSkiss5を使った方が良いのかもしれない。AF使えるし、日付も入るし。まぁ、まだNikon FE+Planar1.4/50を使いこなせていないというだけの話かもしれないけれど。不確実性、不安定さ、みたいなものを求めるのなら、Nikon FEの方が良いかもしれない。前回の記事の写真はピントが甘いものが多いけれど、AFが使えるカメラだとああいう写真って意図的に撮ろうとしない限り、逆に撮れないものだったりする。MFオンリー=ゆっくりじっくりピントを合わせて丁寧にシャッターを切る、という使い方をするカメラなのだろうけれど、正直そういうのは向いていない(それ故に二眼レフも手放した)。ただ、このカメラは妻の祖父のものだから、このカメラを使うということに意味があるのだと思って使っている。

中判に憧れてリコーフレックスを買った時もそうだったけれど、中判を使ったからといってそれだけで良い写真が撮れることはなかったし、川内倫子みたいな写真も撮れなかった。結局、そういうことなのではないだろうか。写ルンですを使っても、奥山由之みたいな写真はなかなか撮れないのと同じように。

フィルムで撮ればそれだけで良い写真になるのではないか、などと、甘く考えていたのではないか?よく言われることだけれど、フィルムで撮ってりゃ良いってものではない、写真そのものが良いか悪いかだ。自己満足であってはならない。通常、写真を見る人はフィルムかデジタルかなんて気にしていない。何のレンズを使ったかとかそういうことも。
写真は感性と腕が全てだ。カメラは手段だから、使い易いのを使うのが一番。例えば中判で良い写真を撮っている人たちは、中判を使っているから良い写真なのではなくて、純粋に写真が上手いのだろう。きっと中判に限らずどんな機材を使おうとも上手いのだ。フィルムで撮っているかどうかも関係がない。川島小鳥の写真は、EOS 5DmarkⅣで撮った写真でもやはり川島小鳥感がある。つまりはそういうことなのだろう。

しかし、これは逆のことも言えて、Nikon FEでコンスタントに良い写真が撮れるようになれば、α7Sではもっと良い写真が撮れるようになるのではないか、とも考えられる。最初にフィルムを(大人になってからまた*1)始めたのは、そういう理由からであった。α6000だけではなく、フィルムもやったらもっと上手くなるのではないか、と友人に言われたことがきっかけだった。実際に上手くなったのかどうかは分からない。けれど、例えば少し前に作った妻の写真集(フィルムオンリーのと、デジタルオンリーのと2バージョンある)を見返していると、フィルムで撮った写真の方が良く見える。デジタルで撮った写真の方が色味は鮮やかだし、階調も豊かだ。フィルムの方は粒子が荒いし、ハイライトは白飛びしがち、シャドウは黒潰れしがち。それでも、フィルムで撮った写真の方が温かみや柔らかさがあり、心の琴線に触れる何かがあるような気がする。気がするだけかもしれないけれど。

僕がフィルムを始めてからの短い間にも、フィルムの種類はかなり減ったし、現行のフィルムは値上げされたし、一部のフィルムカメラがやけに高騰したりもしている。(世間の)フィルムブームもいつか必ず終わる。今後、現像代も必ず値上げされる日が来る。やがて、趣味で撮るにはちょっと手が届きづらいような値段になっていき、今では即日上げてくれるネガフィルムの現像も外注になり数日かかるのが当たり前、みたいなことになっていくのだろうと思う。全ては期間限定なのだ。フィルム写真というのは、どう考えても今のうちしか楽しめない遊びだ。だとすれば、今のうちにフィルムを使っておかないと損なのかもしれない。5年後にまたやろうとしても、もうフィルムも売っていなくて、あるいは超高額、そして現像代も倍くらいになっているかもしれない。そもそも現像してくれるところがない、とか。

冷蔵庫にまだ20~30本くらいはフィルムのストックがあって、実のところ最近はストックしていたフィルムを使うことが殆どだから、フィルムを新たに買うということがあまりない。前に自分の中でフィルムブームだった時に「安いうちに買いだめしておこう」と買い込んだものが殆どだ。結果、これは正解だった。気付いたら業務用フィルムのISO400というのは廃盤になっていた(冷蔵庫にまだ10本ある)。ロモも値上がった。今一番安いのは業務用の100か、逆輸入品のC200で1本あたり500円弱。これからさらに値上がるのだろうか?C200の10本セットは買っておくべきかもしれない。

そういえばポジフィルムってクロスプロセス以外では使ったことがないから、経験として1本くらい使ってみても良いかもしれない。ベルビアとか。モノクロもブローニーで1本使った以外使ったことがないので、こちらは何本か買ってみた。

今度はフィルムで作品撮りをしよう。美しいものを撮りたい。

*1:僕が小さい頃はフィルムしかなかった。当たり前のようにフィルムカメラで釣った魚の写真などを撮っていた。現像・プリントも今よりずっと安かった。

Kodak ULTRAMAX400で撮った写真

以前このブログ経由で結婚祝いに頂いたフィルム、Kodak ULTRAMAXを漸く使って現像したので、その写真をアップします。
フィルムを送ってくださった方、ありがとうございました。

amilamia.hateblo.jp

以下、全てカメラは妻から借りているNikon FE、レンズはコシナCarl Zeiss Planar 1.4/50ZFです。
ビックカメラでデータ化したものをLightroomで多少調整しています。


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1ロール全部ではありませんが。そして特にこれと言って特筆すべき写真があるというわけでもないのですが、日常を焼き付けておきました。

Kodak ULTRAMAX400を送って下さった方、ありがとうございました!

彼岸花

ついつい放置してしまっていた。何かあったわけでもなく、かといって何もなかったわけでもないけれど。日付見たら、丸1ヶ月書いていなかったようだ。

フィルムカメラ彼岸花を撮ってきた。構図が去年と同じだ。そして去年の写真の方が良かったような…。

最近妻のNikonFEを借りたので、そちらでも撮ったけれど、使い慣れているCanonEOSkiss5の方が良い写真が撮れていた。というか、要はレンズだな。CanonEOSkiss5では撒き餌レンズEF50mmF1.8STMを使ったのだけれど、NikonFEにはnikkor28mmF3.5が付いていた。僕には使いづらい画角だ。仕方ないので(?)、コシナプラナー50/1.4ZFを注文した。廃盤の方の中古。マウントアダプターも買ったから、NikonFEを取り上げられても、α7Sで使える。

最近はNikonCanonも、そしてPanasonicもフルサイズミラーレスを出してきて、フルサイズミラーレス戦国時代みたいになってきた。僕はずっとSONYのフルサイズミラーレスなので関係ないし、他社に乗り換えるということも100%ないけれど。
しかしなんだか、猫も杓子もハイスペックなカメラばかり出してきて、ハイスペックカメラ戦争に辟易してきた感があるので、どうせなら時代に逆行してやろう、ということで妻のNikonFEを暫く使ってみることにする。写ルンですとかを除けば、今まで使った中で最もアナログでアナクロなカメラ。というのは嘘で、NikonFEには露出計があって絞り優先オートが使えるから、以前使っていたRICOH FLEXの方がもっとアナログでアナクロだった。僕にはフルマニュアルは向かない。不便さを楽しむのには良いかもしれないけれど、ただ不便なだけだと楽しくないので、楽しむためには露出計は欲しいよね、と。

機材の話とかはアクセスしやすくて、情報が得やすいのだけれど、肝心の写真表現そのものについての情報ってなかなか得づらかったりする。特にネットだと。
だから最近は雑誌とかを買って読むようにしているのだけれど、色んな写真家の文章を読むにつけ思ったのは、なんというか、結局のところ正解ってのはなくて、言わば各々が模索していくものだから、やはり何も分からない。というか余計に分からなくなった。それとも、成功すれば、評価されれば正しかったということになる、という生存バイアスみたいな話だろうか。
NikonFEでは日常ばかりを撮っているけれど、これはあくまで記録であって作品ではない。自分の日常を切り取って他人に見せたいという気持ちはあまりない。ましてやそれを作品だなどと豪語することも到底できない。かと言って、以前のように、以前と同じような気持ちで女の子のポートレートを撮り続けていくというのも色々と難しい。一度メタな視点を持ってしまった以上は、以前と同じ気持ちで続けていくことはできない。そもそも、撮りたいと思う人がいないという問題も大きい。川島小鳥も言っていたけれど、撮りたいと思える被写体と出会えるかどうかというのは狙ってできることではない。
そうやって色々考えると、今まで撮ってきたポートレート写真というのは、あれはあれで、あの時しか撮れなかった、一生のうち、短い期間でしか作ることができなかった作品群なのかもしれない。だとすれば、一冊にまとめてみるのもアリかもしれない。とちょっと思った。

最近はまた曲を作っていて、6曲入りミニアルバムにできそうだから、年内にEPをリリースするつもりでいる。アートワークを撮らねば。そしてアー写も?


お彼岸だったからか、関係あるのか分からないけれど、最近亡くなった母がよく夢に出てくるような気がする。思えば以前は夢に出てくることはなかったような。しかし、夢の中に出てくる母もまた、決まって末期癌なのだ。状態は様々なのだけれど、恐らく記憶の中にある、何れかの状態の時の母なのだろう。発見直後の、癌患者には見えないような元気な時もあるし、終末期の黄疸が出た状態の時もある。当然夢の中なので時系列なんてなく、順番はバラバラ。蒸し返すのはやめてくれという感じだけれど、こういうのはいつまで続くのだろうか。恐らく、死ぬまで続くのだろう。若い頃の記憶だから、例え認知症になったとしても覚えているだろうし。
そういえば、さくらももこも、樹木希林も、山本キッドも癌で亡くなってしまった。二人に一人はなる病気だし、それは有名人であろうとそうでなかろうと関係ないというだけの話なのだけれど。人生は短い。作品を作ろう。

「ポトレ」

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所謂ポートレート撮影というやつ、撮影会も、個別撮影も、本質的には同じじゃね?と思い始めた(というかそんなの傍から見れば誰の眼にも明らかなのに、今更気付いた、といったところか)。赤の他人であるところの女の子を、色んな男(あるいは女)が撮っているという謎な状況。そんなのどう考えたって普通じゃないし、自然ではない。おかしい。かなり特殊な状況だ。
1人の女の子の周りにカメラ構えたおっさんが沢山群がっている、みたいな感じで、その様子が目の前で見えているか、それとも見えていないか(でもネットやSNS上では結局のところ見える)という違いだけで、どちらも本質的には変わらないだろう。

つまりは、こんなのは何でもないのだ。女の子の写真というのは視覚的に分かりやすいジャンルではあるけれど、基本的にはあまり中身はない。うまく言語化できないけれど、何かちょっと違うなと思い始めてしまった。そうなると、最早続ける理由がなくなってきた。でも、それで良いのだろうとも思う。それが正常な感覚だと思う。

僕は一体何を撮ってきたのか。そして今、これから、何を撮るべきなのか。何が撮りたいのか。ポートレートについては、これは一体何なんだ?と思いながらもずっと撮ってきた。しかし、このままだと同じことを繰り返していくだけになってしまう。続ければ続けるほど、どんどん良くなっていく、なんてことはない。ある程度撮れるようになったら、あとは同じようなことの繰り返しにしかならない気がする。そこには何かありそうで何もない。穿った見方をすれば、その「何かありそうで何もない」というのを撮るのがポートレートなのかもしれないけれど。例えばおっさんが若い女の子を撮るとした場合は、言うなれば淡い期待とか欲望とか下心とか、あるいは逆に虚しさとかだろうか。フロイトが言うところのリビドー。

とはいえ、ただ美しければ、そこに何かしらの美しさが成立していれば、それで良いのではないか。とも思える。確かにそれも一理ある。プロセスなんか関係ない。結果が、成果物が良ければそれで良い、と。確かにそうかもしれないと思う部分もあるのだけれど、やはり、そうじゃないと思うんだよなあ。だって、そこに写っているのは嘘でしかないし、それを良いと思う人がいたとしても、それはただ単に騙されているだけなのだから。それはどうしても、レベルの低い次元の話に思えてしまう。みんな、そこまで分かっていて、分かった上で写真を見ているのだろうか。ドラマとか映画みたいな感覚で?そもそも、全ての写真は本当ではないのだと言えばそうだけれど。
あるいは、みんなこういったことは全部織り込み済みで、分かった上で敢えてやっているのだろうか。他人が何を考えているかは分からないけれど。

写真を撮っていない人、普通の感覚の人にはあまり伝わらないだろうか。こういうのは。僕が思うところの、「は?」っていうポートレートの方が一般の人にはウケるんだろうなというのも凄くよく分かる。なんだか凄い写真に見える、良い写真に見える、というのも、物凄くよく分かる。そうなると、僕もそういう風に、「そういう」感じの写真を撮らなければならないのではないかと思ってしまう。しかしそれは間違いだろう。既に世界に存在しているものの劣化版を作ってどうするのだ。そして他人の欲望を自分の欲望と勘違いしてはならないし、模倣はどこまでいっても模倣でしかなくて、本家本元には勝てない。

xico.media
↑「は?」っていうポートレートの典型例。


何だかよく分からなくなってきた。ここら辺の「よく分からな」いところを、何らかの形で写真で表現できたら、それはそれで作品になるのかもしれない、とはいつも思うのだけれど。キャプションや文章とかではなく。

最終的には自分自身の表現を見つけなければならないのだ。そして、村上春樹も言っていたけれど、それにはどうしても時間がかかる。まだまだ時間はある。続けていくことが大事だ。やっていきましょう。