地方都市の夕景

音楽と写真

お引越し

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引越しします。これからはライブドアブログで!

という話ではなく、またもや物理的な引越しの方です。只今我が家は段ボールだらけになっています。新居は近所なので壊れ物等についてはある程度自分で運んだ。おかげで肩を中心に謎の筋肉痛。
賃貸物件の限界を見たので購入しました。ローンも組んだし自己資金もかなり使った。自己資金というか親の金だが。しかし、田舎の材木屋に何故そんな金があったのかは謎である。不動産業もやっていたようだから、土地転がしでもしていたのだろうか。上手いこと運用していた、などと母は言っていたが、運用していた当本人はとっくの昔に死んでいるので詳細を訊く術もない。大人になってから思うことだけれど、あの人ともっと話しておけば良かったとか、もっとああしていればこうしていれば、などと思っても後の祭り。歴史にifはない。そして昔の自分なんて、凡ゆる意味で今の自分とは別人なのだ。小学生が祖父に不動産売買のノウハウを訊くなんてまず有り得ないことだろう。こちとら夏休みの宿題をこなすのに必死だったのだ。

残った僅かなお金は再び定期預金に入れて凍結させた。しかし定期預金の金利はかなり安い。しかもここ最近どんどん下がっている。メガバンクだと0.01%とかが当たり前。ほぼ意味がない。ネット銀行系だと0.2くらい。良くて0.3%という。まぁ何もしないよりかはマシだし、株とかは上がったり下がったりするのが気になってしまい耐えられないので僕には向いていない。故にもうこれしか選択肢がない。

購入した物件は立地こそ良いものの、築50年オーバーで旧々耐震、おまけに土地は借地である。返済能力はOKでも物件がNGで銀行からは融資が受けられず、ノンバンクからの融資となった。金利高いよ…。中身はリノベーションしてあるので新築のような雰囲気になっているけれど、訳あって所々歪な仕様になってしまった。まぁ仕方がない。管理はちゃんとされているみたいだから良しとしよう。しかし首都直下地震が来たらどうなるか分からない。耐震補強なり、建て替えなり、今後どうなっていくのかは誰にも分からない。不確定要素が多いというのもなかなか、メンタルに堪える。

盲点だったのが玄関のドアで、所謂団地の鉄ドアみたいな郵便受けと牛乳瓶受けが一体化した古いタイプのドアなので鍵交換も困難だったし、ドアに穴を開けないとクローザーも付けられない。外からの冷気も入ってくるし、光は漏れるし音は聞こえるし。それでも、他の設備は新しいし、立地は良いし、多少広くなったし、日々の生活の満足度は上がるのではないかと思っている。ペットも飼えるから、落ち着いたら猫を飼おうと思う。ネコと和解せよ。

もうこれ以上に高い買い物をすることもないだろう。車も興味ないし、ギャンブルもしないし、キャバクラも風俗も行かないし。それら以上に危険なカメラ・レンズ沼も一通り揃えてしまったとことで落ち着いたし。とすると、僕の人生は一通りこれで完成というか、もうこれ以上望むものはないのかなという感じになってくる。あとは年老いて死んでいくだけなのか。怖いのは地震だなー。最近関東で地震頻発し過ぎだし。そして、いずれは必ず建て替えになってしまうだろうから、その時に負担金が出せるのかどうか。うむー、結局どこまで行っても安心なんてしていられないな。例えば一生安泰なくらいのお金を持っていたとしても、今度はそのお金を盗まれたり騙し取られたりする恐怖と戦わなければならない、みたいな話で。そして人は皆、老・病・死には抗えない。若者の場合のそれはお金・病気・失恋だと、以前ゴールデン街であったオッサンは言っていたが。僕はもう若者ではなくなりつつあるのだなぁと思うと、人生というものについて考えてしまう。住宅ローンを組むとなると、何十年後の話ばかりされるのだけれど、そんな先のことなんて分からないよ、と何度も何度も思った。明日交通事故で死ぬかもしれないし、それは明後日かもしれない。先のことなんて誰にも分からない。だから考えても仕方がないのだけれど、それでも考えずにはいられない。そして、どうしても悲観的な考え方をしてしまう。それが人間のサガだ。というか、僕の宿命なのだろう。決断は早いけどちゃんと考えている、などと仲介業者には言われたけれど、当然だ。まず先に考えないと動けないタイプの人間だから。色々と脳内でブレーンストーミングした結果、選択肢がこれしかなかったというだけの話だ。選択肢は少なければ少ないほど良い。迷いが生じないから。そして、結局はそれが宿命なのだ、何をどうしてもこうなる運命にあったのだ、と思う。例えば今回の物件を買わなかったとしても、結局同じような条件の他の物件を買っていたのだろうと思うし。

運命を受け入れて生きていくしかない。人生、自分でコントロールできることなんて極僅かなのだ。最近よく思う。僕は一連の大きな流れの中で流されるように生きていて、自分で決めているようなつもりになっているけれど、実は自分の意思とは無関係に流されているだけで、勝手に色々と物事が決まっていく。否、その「大きな流れ」が物事を勝手に決めていく。そして僕はそれに抗うことはできなくて、受け入れていくしかない。それが僕の人生であり、今の僕の全てなのだと。それが正しいのかどうかは良くわからない。むしろ「正しい」とは何なのかという話になってくる。「正しい」とは価値判断だから、絶対的なものではない。それは誰にとって正しくて、誰にとっては正しくないのか、ということだけが問題だ。果たして僕は正しく生きているのだろうか。