地方都市の夕景

音楽と写真

ラットレース

終りのない仕事を毎日毎週毎月毎年繰り返していると、まるでハムスターが回し車を回すことで発電して豆電球を光らせているかのような、意味があるのか無いのか分からないことを繰り返しているだけのような感覚に陥る。例え転職したって、根本的なところは何も変わりはしない。きっと誰しもがそうだろうけれど。これをあと40年程繰り返すと、お前みたいな老人はもう使えないから辞めてよし、となり、貰えるのか貰えないのか不透明な年金という概念に縋って生活する羽目になる。足腰は弱っているだろうか。頭髪は、歯は、視力は残っているだろうか。心は病んでいないだろうか。人生はいつだって今がピークで、いつだって今が集大成。先の事なんて考えても仕方ない。今できることをしよう。という我ながら驚く程、何ともありきたりな結論に落ち着いた。

最近めっきり寒くなってきたからか、SNSで繋がっている人々が皆、センチメンタリズムに浸っているというか、鬱になっているというか、構って欲しいオーラを出しているというか、とにかく皆、端的に言えばメンがヘラっているようである。インスタの写真を全部消したりとか、「暫く休みます」とかプロフィールに書いたりとか(誰も気にもしていないし、そもそも他人のプロフィールなんて殆ど読むこともないが)、LINEのアカウント名を「.」とか「あ」とかにしたり、アイコンの写真をデフォルトの人影みたいなのにしたりとか、アカウントごと消したりとか、、、なんというか、こちらとしては季節の風物詩的な見方しかしていないのだけれど、当の本人にとっては世界でただ一人の特別なアテクシに特別に注目して欲しい、構って欲しい、ってなところだろうから、これまたまぁスルーするしかないのではあるが、結局の所、皆、人肌恋しい、寂しい、構って欲しい、承認して欲しい、、、そんなんばっかだ。世の中本当にそんなんばっかでできている。それは今に始まった事ではなくて、 SNSの普及によって可視化されたというだけの話なのだろうけれど、まぁ一言で言えば目障りだし鬱陶しい。とか書いてる僕の文章も目障りで鬱陶しいのかもしれないけれど。

T2を売ったのと、不用品をあれこれ処分したのでちょっとお金ができたので、まずはα7Sの割賦金を一括返済して、それからレンズを分割で買うことにする。兎にも角にも、できる限り早く手元にモノが手に入った方が良い。新しい機材は使いこなすのに時間がかかるし、それを使って撮ることができたはずの機会を逃すことは損失だからだ。機会損失。その為にはローンでもなんでも組むべきだ。というのが僕の考え。

こんな風に遊んでばかりいられるこの環境、こういった時間でさえも、いつまで続くのかは分からない。というか、僕もいつかは死ぬわけだから、どうしたっていつかどこかで終わるのだ。それは必然的で、絶対的で、不可避である。いつかは何もかも、全てが終わる時が来る。はじめの話に戻るけれど、結局今が一番大切なのだ。刹那的に生きろ、というわけではないにせよ、今しかできないことを大切にしたい。僕らは皆、日々、刻一刻と死に向かっているのだから。死という絶対的な、圧倒的な、絶望的なものの前では、何一つ、役には立たないのだ。何一つ、気休めにはならないのだ。何一つ、救いにはならないのだ。

何歳まで生きますか?

何歳まで生きますか?