地方都市の夕景

音楽と写真

会る見を桜寒20200202寒桜を見る会

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20200202というシンメトリーな日に寒桜を見る会と称して新宿御苑へ。もう年パス買ったほうが良いんじゃないかという感じの来訪頻度。結果的に寒桜はまだまだ咲き始めという感じだったけれど、運良くメジロがいたので連写。去年はMFのオールドレンズ、ヤシコンゾナー135mmF2.8で頑張ってピント面拡大して撮っていたのが、今年はBatis135mmF2.8になってAFが使えるようになったのでちょっとだけ有利に。とはいえ、α7Sは連写には優れておらず、AFも遅いカメラだから殆ど運頼みみたいな感じだったのだけれど。帰ってPCで見てみたら予想以上にずっと綺麗に撮れていてびっくりした。Batis凄え。まぁ、大幅にトリミングしてますが。

周りの人達はみんなバズーカみたいな望遠レンズに、カメラも連写が強いスペックの機種を使っているようで、僕のカメラがシャッ、シャッ、シャッ、だとしたら、周りはダダダダダダダダダみたいな感じで連写していた。秒間何コマとか、そんなスペック無駄だろ、何に使うねん、と思っていたけれど、こういうときに役立つんですね。動きモノを撮る人は大変だ。レンズも300mm以上は必要だろう。沼が見える。踏み込んではいけない世界のような気がする。

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梅。

思うところあってまたちょっと機材を整理することにした。例えばちょうど1年前くらいに買った標準ズーム、Vario-Tessar24-70mmF4は全然使わないし、ズームレンズ特有というか、仕方のないことだろうけれど、何となく心許ない、もやっとした写りをするのが好きじゃないので手放すことに。やっぱり単焦点が好き。できれば単焦点しか使いたくない。あとは、もうMFで撮ることはないと思うからオールドレンズも手放そうかどうか。

写真ってやっぱり機材なんだよなと思う。カメラとレンズという機材があって初めてできるもの。絵は鉛筆1本と紙1枚でも描けるけれど、写真は虫眼鏡1つでは撮れない。その点、機材への依存度が高いと言える。「その機材だから撮れた写真」「その機材じゃないと撮れない写真」は沢山あるし、これまでにも沢山あったのだろう。冒頭のメジロの写真もそう(とはいえこれはトリミングして誤魔化しているだけで、もっとちゃんと撮りたいなら、もっと長いレンズじゃないとダメだし)。写真の話と機材の話は別物だが、どうしても切り離せない部分がある。

そして、完璧に自分にフィットする機材というのは存在せず、カメラの開発者でもない我々は、如何にベターな選択肢を選ぶかということしかできない。写真とは選択の芸術であり、様々な局面で様々な判断や選択を求められる。こういった部分でも、それを避けることはできない。今までにも色々な機材を試してきた。APS-Cのミラーレスに始まり、オールドレンズとか、二眼レフとか、高級コンパクトフィルムカメラとか、コンデジとか。何が正解なのかというのは、実は未だに分かっていない。α7Sだけはメインでずっと使っているけれど、実は「これ1本で何でもいける!」みたいなレンズには出会えていない(そもそもそんなのは存在しないだろう)ので、どうしても交換レンズを沢山持ち歩く羽目になってしまう。以前はコンパクトなレンズ2本だけだったけれど、今やそれだけでは足りないと思えてしまう。レンズの画角の豊富さと表現のバリエーションとは密接に結びついているから(というか、レンズ交換式のカメラの本質はそこだろう)。しかし、どんどん装備が増えていってしまうというジレンマがある。どうしても、フルサイズ対応のレンズは大きくて重い。しかし、様々な理由からもうAPS-Cには戻れない。

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花を撮る時は135mm、というのが定番化しつつある。

先日、色々と諦めて初代RX100だけで外に出てみたら、なんて楽なんだろうと驚いてしまった。どうしても写りはそれなりだし、コンデジの小さいセンサー特有の硬い写りをする。よく言えばシャープな写りだから、風景とか都市のスナップには良いけれど、花とか人とかを撮るカメラではない。ボケもほぼ使えないし。とはいえ、ポケットに入るコンパクトさ、機動性、周囲に気付かれにくく被写体に威圧感を与えない、など、コンデジならではのアドバンテージも多い。ここに何らかのヒントがある気がした。実はこれが理想の撮影スタイルに近いのではないかと。森山大道スタイル。

コンパクトでかつもうちょっと柔らかい写りにも対応できる機材って何だろう。フィルムカメラ?でも、もうフィルムは高騰し過ぎていてランニングコストがかかり過ぎるし、それを考えるとシャッターを切るのに躊躇してしまうという悪い癖が出てしまう。何よりフィルムの良くも悪くもファジーな写りは気分じゃない。僕はもうRAWでしか撮りたくないのだ。おまけにCanonのレンズは売ってしまったし。オールドレンズはどうか。まず、MFが苦手。片手で撮れないし、一日中ピントの山を見ながらヘリコイドを回す作業をずっとやっていると疲れてしまう。そして元も子もないけれど、他社製のレンズをマウントアダプターで付けるというの自体がどうしても好きになれない。これは特に理由はないけれど、何となく。
じゃあどうするか。RX100とα7Sの間を埋めるような機材とは。自分の中で答えは一応ある。けれど、やはり試してみないことには分からない。やっぱり違うのかもしれないし。どこまでいっても、結局の所トライ・アンド・エラーを繰り返すしかないのだろう。

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こういうのは135mmじゃないと撮れない。85mmでもちょっと違うかも。50mmで寄ると歪みが気になる。

今回の写真は全て135mmで。35mmでさえ広過ぎると思ってしまう時がある僕には、長めのレンズの方が合っているのかもしれない。SONYから24mmF1.4という面白そうなレンズが出ていて気になっていたのだけれど、恐らく使いこなせないだろうからやめておく。35mmF1.4という大好きなレンズさえ、使いこなせているのかと言われると微妙なところがあるくらいだし。500g以上のレンズは使いたくないのだけれど、135mmF2.8と35mmF1.4は優に超えてしまっている。ボディとアンバランスな大きさ・重さ。でも写りは唯一無二。難しい。小ささ・軽さと写りの良さという相反する2つの要素の中で、妥協点を見つけていくしかない。

最近あまり写真を撮っていないけれど、撮っていないからこそ、今が一番自由に、自由なやり方で写真を撮っているような気がする。ストロボを遠隔で光らせる必要はないし、フィルムで撮る必要も、オールドレンズで撮る必要もない。女の子のポートレートを撮る必要もないし、インスタの自動いいねツールを使う必要もない。Photoshopでゴリゴリのレタッチをする必要もない。でも、それらがやりたいのならやれば良い。

2019年の終わり

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早いもので年の瀬ですね。


皆様お疲れ様でした。
そして、今年も当ブログを読んで頂きありがとうございました。

まずは機材の話から。今年買ったレンズは以下の3つ。

SONY Vario-Tessar 24-70mmF4
新婚旅行に持っていくために、ということで標準ズームを買ってみた。まだ予定は組めていないけれど。
ネットではかなり評判の悪いレンズ。確かに写りは甘い。けど、色乗りは普通に良い感じ。
まぁ小三元のズームなんてこんなもんでしょ。安いし。

ZEISS Batis135mmF2.8
同じスペックのヤシコンSonnar2.8/135を使っていたのだけれど、135mmでMFはかなり疲れるので、AF使えるこいつを導入。
写りは滅茶苦茶に良い。しかし絞っても絞ってもボケるので使い所は限定されるか。お花畑とか撮るとめっちゃ良い。

SONY Sonnar 35mmF2.8
F1.4を買う時に売ってしまったのだけれど、このレンズの軽さ・小ささはやはり正義だ!ということで買い直した1本。
コンパクトなシステムで出歩きたい時に重宝する。AF早いし、写りも開放からシャープ。
実はこのレンズこそソニーEマウントの真骨頂だったのではという説もある。


来年は買わないのが目標(と毎年言ってる気が)。というかもう一通り揃ってしまったからな。
強いて言えば中途半端な画角のレンズで気になるのはあるけど。Batisの40mmF2とか、サムヤンの45mmF1.8とか、シグマの45mmF2.8とかね。
でも40mmって35mmとほぼ同じだし、サムヤンはなんか安っぽいし、シグマはせめてF2ならな…という感じで購買意欲は唆られない。

フィルムカメラは辞める予定だったけれど、結局フィルムを使い切れなかったので残りの機材で来年も続投。
しかしキヤノンのレンズは下取りに出してしまったため、ニコンFマウント用のコシナプラナー1.4/50をマウントアダプター経由で使っている。MFかなりきついけれど。
いつになったらフィルムが全部なくなるのか分からない。まぁフィルムで撮りたい気分の時に使いましょう。


そして一番大きかったのは、というか大きい買い物だったのは、家でしょう。
賃貸を解約し、都内某所の古いマンションの一部屋を買った。
中身はスケルトンからリノベーションしたので綺麗だし設備も新しくて快適に過ごせているけれど、共用部はどうしても古いので色々と難があることは認めざるを得ない。
何より、大きな地震が来た時にどうなってしまうかというのはちょっと読めない部分がある。地盤は割と良い地域ではあると思うのだけれど。
まぁ首都直下地震が来たら、首都圏のどこに住んでいても同じでしょ、という諦めみたいな部分もある。悲観的に生きたところで何も生まれはしない。


他に今年って何かあったかな?と思ったら、例の写真集を作ったのは今年だった。写真新世紀には勿論落選した。
収益的には赤字ではあるけれど、格安で写真集を作れたと思えばかなり安いものである。良い経験になった。
あれ以降、僕の写真に対するスタンスというのも変わった気がする。諦めがついたというか。


そうだ、ジムに通い始めたのも今年の初め頃だった。今や完全に日常の一部と化しているけれど、軽い筋トレとランニングが日課となっている。
継続していくことが大事。継続は力なり、というのは本当で、この僅かな期間でも僕より後に新しく入って来て、最近めっきり見かけなくなった人も沢山いる。
お互いに会話はしないけれど、いつも来ている人というのは何となく分かる。結局皆、続かないのだろう。そういうものだ。ジムは「行かないのに払い続けている会費」で利益を上げている。


あとは、ヒゲ脱毛を始めた。先日3回目の照射をした。まだまだ先は長い。10回はやらないとヒゲはなくならない。否、何度やっても結局0にはならないのだけれど。


年単位でどうのこうの、という生き方をしているわけではないから、1年が終わって次の年になったとしても何も変わることはなく、また同じような日常が巡り巡っていくだけなのだけれど、とりあえず2019年のまとめとして書いてみた。

来年も当ブログを宜しくお願い致します。
良いお年をお迎え下さい。

お引越し

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引越しします。これからはライブドアブログで!

という話ではなく、またもや物理的な引越しの方です。只今我が家は段ボールだらけになっています。新居は近所なので壊れ物等についてはある程度自分で運んだ。おかげで肩を中心に謎の筋肉痛。
賃貸物件の限界を見たので購入しました。ローンも組んだし自己資金もかなり使った。自己資金というか親の金だが。しかし、田舎の材木屋に何故そんな金があったのかは謎である。不動産業もやっていたようだから、土地転がしでもしていたのだろうか。上手いこと運用していた、などと母は言っていたが、運用していた当本人はとっくの昔に死んでいるので詳細を訊く術もない。大人になってから思うことだけれど、あの人ともっと話しておけば良かったとか、もっとああしていればこうしていれば、などと思っても後の祭り。歴史にifはない。そして昔の自分なんて、凡ゆる意味で今の自分とは別人なのだ。小学生が祖父に不動産売買のノウハウを訊くなんてまず有り得ないことだろう。こちとら夏休みの宿題をこなすのに必死だったのだ。

残った僅かなお金は再び定期預金に入れて凍結させた。しかし定期預金の金利はかなり安い。しかもここ最近どんどん下がっている。メガバンクだと0.01%とかが当たり前。ほぼ意味がない。ネット銀行系だと0.2くらい。良くて0.3%という。まぁ何もしないよりかはマシだし、株とかは上がったり下がったりするのが気になってしまい耐えられないので僕には向いていない。故にもうこれしか選択肢がない。

購入した物件は立地こそ良いものの、築50年オーバーで旧々耐震、おまけに土地は借地である。返済能力はOKでも物件がNGで銀行からは融資が受けられず、ノンバンクからの融資となった。金利高いよ…。中身はリノベーションしてあるので新築のような雰囲気になっているけれど、訳あって所々歪な仕様になってしまった。まぁ仕方がない。管理はちゃんとされているみたいだから良しとしよう。しかし首都直下地震が来たらどうなるか分からない。耐震補強なり、建て替えなり、今後どうなっていくのかは誰にも分からない。不確定要素が多いというのもなかなか、メンタルに堪える。

盲点だったのが玄関のドアで、所謂団地の鉄ドアみたいな郵便受けと牛乳瓶受けが一体化した古いタイプのドアなので鍵交換も困難だったし、ドアに穴を開けないとクローザーも付けられない。外からの冷気も入ってくるし、光は漏れるし音は聞こえるし。それでも、他の設備は新しいし、立地は良いし、多少広くなったし、日々の生活の満足度は上がるのではないかと思っている。ペットも飼えるから、落ち着いたら猫を飼おうと思う。ネコと和解せよ。

もうこれ以上に高い買い物をすることもないだろう。車も興味ないし、ギャンブルもしないし、キャバクラも風俗も行かないし。それら以上に危険なカメラ・レンズ沼も一通り揃えてしまったとことで落ち着いたし。とすると、僕の人生は一通りこれで完成というか、もうこれ以上望むものはないのかなという感じになってくる。あとは年老いて死んでいくだけなのか。怖いのは地震だなー。最近関東で地震頻発し過ぎだし。そして、いずれは必ず建て替えになってしまうだろうから、その時に負担金が出せるのかどうか。うむー、結局どこまで行っても安心なんてしていられないな。例えば一生安泰なくらいのお金を持っていたとしても、今度はそのお金を盗まれたり騙し取られたりする恐怖と戦わなければならない、みたいな話で。そして人は皆、老・病・死には抗えない。若者の場合のそれはお金・病気・失恋だと、以前ゴールデン街であったオッサンは言っていたが。僕はもう若者ではなくなりつつあるのだなぁと思うと、人生というものについて考えてしまう。住宅ローンを組むとなると、何十年後の話ばかりされるのだけれど、そんな先のことなんて分からないよ、と何度も何度も思った。明日交通事故で死ぬかもしれないし、それは明後日かもしれない。先のことなんて誰にも分からない。だから考えても仕方がないのだけれど、それでも考えずにはいられない。そして、どうしても悲観的な考え方をしてしまう。それが人間のサガだ。というか、僕の宿命なのだろう。決断は早いけどちゃんと考えている、などと仲介業者には言われたけれど、当然だ。まず先に考えないと動けないタイプの人間だから。色々と脳内でブレーンストーミングした結果、選択肢がこれしかなかったというだけの話だ。選択肢は少なければ少ないほど良い。迷いが生じないから。そして、結局はそれが宿命なのだ、何をどうしてもこうなる運命にあったのだ、と思う。例えば今回の物件を買わなかったとしても、結局同じような条件の他の物件を買っていたのだろうと思うし。

運命を受け入れて生きていくしかない。人生、自分でコントロールできることなんて極僅かなのだ。最近よく思う。僕は一連の大きな流れの中で流されるように生きていて、自分で決めているようなつもりになっているけれど、実は自分の意思とは無関係に流されているだけで、勝手に色々と物事が決まっていく。否、その「大きな流れ」が物事を勝手に決めていく。そして僕はそれに抗うことはできなくて、受け入れていくしかない。それが僕の人生であり、今の僕の全てなのだと。それが正しいのかどうかは良くわからない。むしろ「正しい」とは何なのかという話になってくる。「正しい」とは価値判断だから、絶対的なものではない。それは誰にとって正しくて、誰にとっては正しくないのか、ということだけが問題だ。果たして僕は正しく生きているのだろうか。

器用貧乏

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昨日の続きみたいな感じ。

誰しもが何らかのコンプレックスを抱えているのだと思うし、例に漏れず僕にも沢山コンプレックスはあるのだけれど、その一つが「何一つとして突き抜けたものが無い」ということである。どんなことでも、大抵はある程度できるようになる。それなりに評価されるレベルにはこなせるようになる。でも、それなりなのだ。人並外れて、誰も到達できないようなレベル感で何かができるようになったということが一度もない。僕は何ももっていない。何もできない。無だ。鬱だ。死のう。とまでは思わないが。

ギターもベースもドラムも歌もできるけれど、一応形にできる、どこのバンドでもそれなりに卒なくこなせる、というレベルでしかなく、どれも中途半端だ。DTMで作曲もできるし自分の音楽はひょっとしたらどこかの誰かには刺さるんじゃないか、と思ってみたりもしたけれど、自分以外の誰かが自分の音楽に反応してくれた試しが無い。写真だってある程度は上手く撮れるけれど、突き抜けて上手いというほどではない。運動は嫌いだからダメだけれど、持久走とか水泳とか、個人プレーなら得意だった。とはいえ、全国大会で優勝するとかいうレベルではない。学年で中の上くらい。雑魚だ。勉強はそれなりにできた方だが、東大には入れなかった。女の子に全くモテなかったわけでもないけれど、モテてきたとは言い難い。異性に限らず、人間関係は上手く行かなかったことの方が多い。他人と長期的な関係を築くのが苦手だから、嫌になってすぐに別れてしまうし、友だちもできない。

要するに何一つとして突き抜けたものがない。器用貧乏そのものである。突き抜けた何かが欲しい。何でもすぐ虚しくなったりつまらなくなったりして飽きてしまうから、何かを極めるということに向いていないのかもしれない。写真は自分に向いてるんじゃないか、とか思ったけどそうでもないなと最近よく思う。向いてないとまでは思わないし、それなりのものをそれなりにアウトプットはできるのだけれど。でも「それなり」止まりなんだよなぁ。美大に行って芸術の勉強でもする?でも今、美大では素人が教えているらしい…。あとはアーティストとして素晴らしい人が教える人として素晴らしいかというとそうではないからな…。

結局、自分が持ってないものを持ってる人とか、自分にできないことをできる人とかに嫉妬したり劣等感を感じたりするんじゃなくて、自分が持ってるものを生かしたり、自分にしかできないことを突き詰めていくしかないんだろうな。でも、僕は何も持っていない、何もできない、と思ってしまうことが最近多くて、途方に暮れている。やはり猫を飼うしかないな。ネコと和解せよ。