地方都市の夕景

音楽と写真

世界の終わり

世界の終わりについて考える。
決して、ミッシェルガンエレファントの曲のことではないし、SEKAI NO OWARIについてでもない。ちなみに花鳥風月という曲が好きだ。あとは幻の命とか、インスタントラジオとか、眠り姫とか、RPGとか。



世界の終わり / thee michelle gun elephant




閑話休題


世界の終わりとは、即ち自分自身の死である。僕はいつどこでどうやってどのような理由でどのように死ぬのか。これはいつかは必ず訪れる、避けようのない事実である。

1年前に母親が亡くなった。末期癌だった。誰がこのような事態を想像し得ただろうか。実際にこのようなことが起こるまで、誰も想定し得なかった。加速度的に悪化し、衰弱していく母を見るのは辛かった。そして僕もあのように死んでいく可能性が高い。癌とは非常にメジャーな病気だから。

今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。いつどこでプリウスが突っ込んでくるか分からないし、通り魔に刺されるか分からないし、地震が起こったり富士山が噴火したり、とにかく何がどうなるか分からない。今後も生きていける保証などはなく、あるのは見込みだけだ。1人の人間の命など、地球規模、宇宙規模からすれば米粒みたいなものでしかない。小学生の頃、アリの手足を捥いだり、水たまりに入れて遊んでいた。一体何匹のアリを殺したか分からないけれど、働きアリの1匹が死んだところで、コロニーとしてはさして何も変わらないのと同じように、1人の人間の命などあってがもなくても変わらない。それでも地球は回っていくし、社会は回っていく。僕が死んだところで、一時的には混乱が起きたとしても、結局は誰かが代わりを務めてくれるだろう。悲しかな、人間とは誰しもが代替的な存在でしかないのだ。

一人で死にたくない、などと言う人もいるけれど、同時に崖から飛び降りて心中とかするのでなければ、死ぬときは誰しもが一人である。例えば息を引き取る瞬間、誰かに手を握っていてもらっていたとしても、死ぬのは自分だけだ。手を握っている人は死なない。死んだらどうなるのか、死ぬときってどんな感じなのかは、死んだことがないから分からないけれど、恐らく眠るのに近い感じなのではないかと推測する。眠くて眠くて、家に帰るやいなや服も着替えずにそのままベッドに倒れ込んで、昏々と12時間とか眠ってしまうときのように。その時間が12時間ではなく、永遠に続く、そして呼吸をしなくなる、二度と目覚めない、それが死。ではないかと。

別れることを考えながら付き合うことはないし、食べ終わることを考えながら食べることもないのに。でも自分がいつか終わることは常に考えてしまう。いつかは絶対に終わる。そういうことを考えながら、シャッターを切れたら良いのかもしれない。その瞬間を永遠にとっておく。しかし、そのデータなりプリントなりも、僕が死ねば全部ゴミにしかならないのだけれど。ネットに上げても、誰も見ないか見なくなるだろう。どうしようもないことだ。

Tポイントはいくら貯めても、あの世へは持っていけない。というか何も持っていけないけれど。

猫を飼うためにマンションでも買うか、どうか。レンズ買うか、くらいのノリで書いてしまっているけど、家って色々面倒。相続人が妻しかいないし、一生賃貸でも良いんじゃないかと思ってるけれど。さぁ、この先どうなるのか。いつ死ぬのか。僕の世界はいつ終わるのか。

完成

α7Sで使うレンズ軍のシステムが完成した。完成なんて大袈裟な言い方だけれど、要は超広角から(中)望遠まで揃ってしまったというだけの話だ。総額がいくらかとか、そんなことは考えてはいけない。趣味だから。最短距離で、最小限の出費でこの結論に辿り着けていたなら、などと考えることは無駄だ。歴史にifはない。自分で実際に試してみないと分からないことも沢山あるし、見えてこないものも沢山ある。例えば、グーグルマップで見るだけではなく、実際に行って歩いてみないことにはその街のことは何も分からないのと同じように。

結局は、一通り全部試してみるしかなかったのだ。何かを得るためには、何かを極めていくためには(全然極まってないけれど)、ある程度身銭を切らなければならないということ。本やネットやSNSなんかを見て知った気になったり、分かった気になっても何も身に付かないし、それでは意味がない。沼から抜け出すためには、沼にどっぷりと浸かり尽くすしかなかったのだ。

思えば、僕の3年ほどの写真歴あるいはカメラ歴というのは、常に試行錯誤の連続だった。今までの全ては、今日の結論に辿り着くまでの実験に次ぐ実験の過程だったということだ。ゆえに一つとして無駄なことはなかった。何もかもが今に繋がっているのだ。

SONY α6000とキットズームレンズから全ては始まった。明るい単焦点を買い、そのトロトロのボケ味にやられる。次にロシア製のオールドレンズの独特の描写にやられる。ヘリオス、ミール、インダスター…そして国産オールドレンズの定番タクマー。オールドレンズはAPS-Cだと中望遠になってしまうのが気になりフォーカルレデューサーなんかも導入したが、結局フルサイズが欲しくなりSONY α7Sへ乗り換える。カールツァイスとの出会い。同時にフィルムカメラにも手を出していた。実家にあったコニカのコンパクトカメラから始まり、破格で手に入れたCanon EOSkiss5がメイン機に。色んなフィルムを試す。トイカメラ、クロスプロセスなんかも試してみる。中判に憧れて二眼レフカメラ、リコーフレックスを買う。高級コンパクト、CONTAX T2なんかも買ってみる。結局リコーフレックスもT2も手放す。Lightroomの導入以降デジタルが楽しくなり、またツァイスの良さを実感しツァイス銘のレンズを色々揃えていく。その写りの綺麗さ、鮮明さに違和感を覚えまたフィルムへ。フィルムはどうしても当たり外れがあり、最高の一枚が撮れるときもあれば、飛んだり潰れたりで残念な写真になってしまうこともあった。「フィルムで撮る」ことに満足してしまっているだけでは?とまたデジタルへ。そしてまたデジタルに違和感を覚え…と周期的にデジタルとフィルムを行ったり来たりするようになる。後にいつでもどこでも持ち出せるコンデジRX100も導入。このカメラでパチパチとスナップを撮るのが楽しくて、やはり自分はデジタルだなと確信する。やがて、相次ぐフィルム銘柄の廃盤や価格高騰などもあって、フィルムからの撤退を決意。ストックしているフィルムがなくなり次第、フィルム関係の機材は売却し、α7SとRX100だけで撮っていくという完全デジタルオンリーのワークフローへ移行することに。フィルムカメラ用に買ったコシナプラナー1.4/50と、とにかく安いヤシコンゾナー2.8/135があまりに良いために再びオールドレンズ再燃。しかし結局MFに疲れ、オールドレンズの不安定さにも嫌気が指し、手堅く撮れる現代のAFレンズがベストという結論に。

僕を惑わせたのは主に2つの要素、フィルムカメラと、オールドレンズだと思っている。現代のレンズはどれもこれも良く写る。重箱の隅をつつけば弱点は色々あるにせよ、いずれも編集によってカバーできる程度の話だ。しかしフィルムカメラやオールドレンズというのはちゃんと写らないというところがスタートラインだ。曖昧さや不確実さというのが味で、それがアートだ、という世界観である。ちゃんと写らないからこそ良い(逆にちゃんと写る、優等生なオールドレンズは使い所がない)。味がある。エモい。そこら辺の要素にやられてしまった。しかしフィルムは種類が減り、高騰し、未来がないのが見えている。そしてオールドレンズとは果てしない沼である。どこかで線引きをしないと、どこかで踏み止まらないとズブズブと沈んでいくだけだ。フィルムっぽさ、オールドレンズっぽさというのは編集で、Lightroomでもある程度再現することはできる。しかし逆はできない。

書いていて気付いたけれど、やはり僕はフィルム写真とかオールドレンズの味とかが好きなのだろうなと思う。しかし、フィルムはとにかくお金がかかる。そもそもフィルムカメラを持ち出すか、デジタルを持ち出すか、と悩むのがストレスであり、両方持っていくとなると荷物が増え過ぎる。また、オールドレンズが無限に増え、機材選定に迷ったりするのは何よりも嫌だ。写真とは選択の芸術であり、汎ゆる場面で何らかの選択を強いられる。何かを選ぶとは、何かを選ばない、もとい捨てることでもある。機材は最小限にして、眼の前の被写体ともっとちゃんと向き合いたい。そういった思いから、フィルムともオールドレンズとも距離を置くことにした(まぁ今持っているヘリオスとかタクマーはたまに使うから置いておくけど、これ以上増やさないということ)。デジタルで撮った写真に敢えてノイズを足していく事にも違和感があったけれど、そこは割り切るしかない。デジタルでフィルムを再現する、で良いじゃないかと。今はそういう結論に至った。

写真とカメラの話は別、カメラのことではなく写真のことを考えよう、とずっと言っておきながら、カメラやレンズのことばかり考えてきたような気がする。しかし写真とは機材失くして撮れないものだから、そこは切っても切れない関係だ。機材のことを考えなくても良くなるくらいに、機材のことについて悩み尽くすというのは必要な期間だったのだと思う。と、散財の言い訳みたいなことを3000字近くも書いてしまった。

写真を始める前の自分は、まさか3年後にこんなことになっているとは思いもよらなかっただろう。カメラやレンズとは則ち、沼である。

幻想

f:id:amilamia:20190520020757j:plain

最近は、去年の冬に買ったCONTAX Sonnar2.8/135を多用している。135mmの圧倒的なボケ、圧縮効果を生かした写真を撮りたくて。
けれど、135mmでMFは被写界深度が浅くて、なかなかきついのでBatis 2.8/135が欲しくなってしまった。というか、もう買っても良いですか…?僕も妻も今が一番若いのだし、どうせ手に入れるのならできる限り早い方が良いだろう。

CONTAX Sonnar2.8/135は比較的ピントの山が見やすいレンズではあると思うけれど、一日中MFで撮っていると神経を使うから疲れる…。写りはやや古めかしい感じ?ヤシコンってみんなこうなのか?ということで、ヤシコンプラナーなんかを買って試してみたくもなったりしていた。けれど、ヤシコンプラナー1.4/50とタクマー1.4/50はほぼ同じレンズ構成で、コーティングやガラスの質を除けばほぼ同じらしい。もっと言えば、50mmF1.4のレンズって大抵ダブルガウス型だからレンズ構成はほぼ同じで、みんな似たり寄ったりなのではないかと思う。つまりは、写りも大体同じような感じになるのではないかと。

f:id:amilamia:20190520022048j:plain

もう、機材頼みだって良いじゃないか。出来る限り良い機材を使って、腕の無さを補う。それも一つの戦略なのではないか。結局のところ、質感や雰囲気というのは編集でいくらでも作れてしまうものなのだし。漸くオールドレンズ神話が打ち砕かれたような感じ。ここへ来て、また一つ先へ進むことができた気がする。フィルムで撮る必要もないし、ヤシコンのレンズで撮る必要もないし、プラナーで撮らなければならない理由なんていうのもどこにもない。そういったものは全て好みの問題でしかないのだ。

オールドレンズはもう全部手放しても良いくらいの気分だ。何を持ち出すか、などと悩むのが何よりも不毛。僕らは機材のことではなく、写真のことで悩むべきだ。できる限り機材は減らして、何を持ち出すか、などといった余計な悩み、迷いをなくしていくべきだ。

ああでなければならない、こうでなければならない、そういった、した覚えのない約束、呪いや思い込みの類など、全て捨ててしまえ。火をつけて。

Golden Week Flowers

f:id:amilamia:20190507171308j:plain

GWは色々出掛けたりダラダラしたりしていたらあっという間に終わってしまった。10連休じゃ足りない。30連休くらい欲しいなぁ。そういえば大学生の頃の夏休みとか最高だったな。まさに人生の夏休みだった。
もうあの頃のような日々には戻れない。なぜなら僕らは大人になったから。


花の写真を多く撮ったような気がするので、適当にピックアップして載せてみる。


f:id:amilamia:20190507171342j:plain

f:id:amilamia:20190507171403j:plain

f:id:amilamia:20190507171425j:plain

f:id:amilamia:20190507171443j:plain

f:id:amilamia:20190507171714j:plain

f:id:amilamia:20190507171650j:plain

f:id:amilamia:20190507171738j:plain

f:id:amilamia:20190507173431j:plain

f:id:amilamia:20190507171820j:plain


花の写真を沢山上げておきながら、実は花の写真を撮るのはそんなに好きではない。別に嫌いでもないけれど、そんなに好きというわけでもない。まぁ綺麗だし撮っとくか、みたいな。多分そういうところが写真にも出てしまっていると思う。やはり、自分が撮りたいのはポートレートなのだなぁと思う。勿論、妻のポートレートも沢山撮ったけどね。そちらはインスタにて。

#嫁グラフィーが賛否両論で盛り上がっている、もとい叩かれているようだけれど、ガタガタ言ってる人たちは結局の所、自分が、あるいは自分の配偶者が写真映えしないから僻んでいるだけなのではないか、と思っている。綺麗な奥さんがいる人は撮ってるでしょ。かっこいい旦那さんがいる人も。
まぁ写真を撮るのって本来記録するためであって、他人に見せるためではないし、恋人や家族の写真を撮るのなんて誰でもやっている、極々ありふれたことだろう。わざわざ#嫁グラフィーなんて今更パッケージングする必要もないわけで。何でも先に言ったもん勝ちだなぁとは思う。

SNS、とりわけインスタやツイッターに生活が支配されているような。SNS全部やめてしまえたら、楽になるのだろうか。

ザラザラした粒子の質感に惹かれるのは何故なのだろう。

まぁよく見たら分かってしまうと思うけれど、片方は僕のカメラで撮ったのをフィルム風に仕上げた写真、もう片方は妻のフィルムカメラで撮った写真。
デジタルの方、最初はいつもどおりに(デジタル)現像したのだけれど、フィルムで撮ったやつの方が、ピントが合ってないにもかかわらず、何だか良いな、と思いフィルム感を意識した現像をしてみた、という話。

Lightroomを導入した直後からフィルム風の現像ばかりしていて、むしろバキバキ系、お肌ツルツル系の現像って未だにやり方が分からないくらいなのだけれど、やはり僕はフィルム風のというか、フィルムっぽい質感の写真が好きなのだなと思った。ここ最近は、デジタル写真に敢えて粒子感を加えるということに疑問を持ち始めて、粒子感を足さない現像というのを暫くやっていた。デジタルらしいクリアな画というのも、それはそれでアリだ。けれど、やっぱり何か足りないような、なにか違うような気がしていた。いや、実際のところ、足りないのではなく、写り過ぎるのだ。デジタルカメラは鮮明に写り過ぎる。人の肌なんかは写り過ぎないほうがレタッチが楽だというのもある。ザラザラしている方が何となく雰囲気がある、という曖昧な理由も大きい。昨今のフィルムブームに乗っかって。

んー、やはりザラザラしている方が好きだ。粒子のザラザラ感に惹かれるのはなぜなのだろう。暗所で撮ったときにシャドウがぶっ潰れていく感じも好きだ。どこか懐かしくて、どこかノスタルジックで、どこか淋しげで。どこか儚い記憶のようで。
と、ポエムを書いてみたところで、どうせ僕のことだから、また気が変わって半年後くらいには「粒子感はない方が良い」、などと言い出しそうだけれど、粒子感を足したり引いたりしながら、自分の写真を追い求めて行きたい。

そういえば、フィルムかデジタルか、というのは完全に結論が出ていて、僕はデジタル派。ゆくゆくはデジタル1台でやっていくつもり。愛機SONY α7S。汎ゆる面でデジタルの方が優っているというのは分かった上で、でも冷蔵庫にまだフィルムが残っているから、たまに使っているというだけ。フィルムが無くなったら、フィルムカメラもレンズも売ってしまうつもりでいる。でも、ザラザラした質感の写真が好きなことには変わりはないから、今後も現像ではフィルムで撮ったような雰囲気に仕上げていくのだろう。いや、先のことは分からないけれど。当面は。


しかし、ザラザラした粒子の質感に惹かれるのは何故なのだろう。