地方都市の夕景

音楽と写真

kyo m'

生まれてきた以上はいつかは死ぬ。自分も死んでいくだけなんだなと最近よく思う。当たり前だけれど。誰もがいつかは死ぬのだし。しかし死んでいくだけなら今をどう過ごすべきなのだろうか。例えば貯金っていつどうやって何のために使えば良いのか分からない。いつどこでどうやって死ぬのかが予め分かるのだったら、どんなにか楽だろうか。明日死ぬのなら、今日のうちに全財産使い果たしてしまっても良いわけだし(そんなの使い途が思い付かないが)。

そういう取り留めのないことを、最近よく考えてしまう。ニヒリズムみたいな。例えば他人が感情的になっていても、「この人は何をそんなに怒っているのだろう/慌てているのだろう/悲しんでいるのだろう/拘っているのだろう、いつかどうせ死ぬだけなのに」といった具合に、どこか醒めた目で見てしまう。社会とか、会社とか、仕事とか、そういうめんどくさくて不合理で非効率的で馬鹿馬鹿しい物事ばかりの何かに対する反抗心みたいなもののせいもあるが。

何のために写真を撮るのかと考えた時に、他人から評価されるため、とか、いいねの数を稼ぐため、とか考えちゃうと行き詰まるしつまらないから、やはり自分が撮りたいものを撮るしかなくて、自分が美しいと思うものを作っていくということ、つまりどこまで行っても自分のためでしかないし、それしかできないなと思う。自分の写真ってどうしても納得できない部分があるけれど、納得してしまったり満足してしまったら、それはそれで、そこで終わりだということだから、まだまだ終わりが見えないというのはラッキーなことかもしれない。一生終わりなんて見たくないし知りたくもない。ただ自分にとって写真とは何かを表現する手段とかではなくて、あくまで写真、ただただ目の前の風景をコピーして取っておくもの、くらいの感覚ではある。だから「作品撮り」というのは基本的にない。全部スナップ。もとい自分の写真を作品だなんて大それた呼び方はできないし、アートだとも思わない。あくまで、写真。

世界はくだらないから、美しいものを作ったり、美しいものを見たり、それによって何かを感じたりしながら、だらだらと生きていきたい。死ぬまでだらだらしたい。僕はこうしてだらだらと死んでいくのだ。

ちゃんと「作品」を残すことを考え始めなければ、と最近よく思う。

今回の写真は全てiPhoneポートレートモードで。iPhoneのカメラはレンズもセンサーも大したことはなくて、ただ画像処理エンジンが優秀なだけらしい。つまりiPhoneが勝手にやってるRAW現像が優秀だと。写真とは何なのかということを考えさせられる。