地方都市の夕景

音楽と写真

なぜ写真を撮るのか。そもそも写真とは。

・国際フォーラムで少し写真を撮ったのだけれど、ああいうメジャーな場所ほど撮り方を工夫しないと他と同じような、ありふれた感じの写真になってしまうなと思った。国際フォーラムに限らず、みんなが撮っているから、定番スポットだから、という理由で所謂「撮影スポット」に出かけて写真を撮っても、イマイチ満足できないことが多い。大抵シャッターを切っている時点で、「ああ、みんなここでこうやって撮ってるのね」みたいな気持ちでやってしまっているから、そりゃあ良い写真になるはずもなく、みんなと同じような、どこかで見たことのあるような写真が出来上がる、というだけの当たり前の話なのだけれど(要はそれは自分の中から出てきたものではないから)。

・だから僕は所謂「撮影スポット」みたいなところで写真を撮るのがあまり好きではなくて、主に自分の生活圏内で撮っているのだけれど、それだと常にネタ切れとの戦いで、常に新しい場所を探さなければならなくなってしまう。「以前撮った時に上手く行かなかったからやり直す」という場合以外では、同じ所では撮りたくない。飽きるから。ちょっと脇道に入ってみたり、ちょっと足を伸ばして知らない道を通ってみたり、と、毎日が常にロケハンである。「お、ここ良いじゃん」というのをどんどんストックしていく。一度撮ったらお終い。また次の場所を探す。そんな感じ。こうじゃないといけない、と思い込む必要もないだろうけれど、なんとなく今はそういうモード。結局、自分が撮りたいと思ったところで、自分が撮りたいと思った人なり物なりを撮るのでないと、なかなか良い写真にはならない。そういうのはやはり、写真に表れてしまうものだと思う(他人がどこで何を撮ってるかは関係ない)。

・でも逆に、みんなが撮っていて、既に撮り尽くされているような撮影スポットで、誰も撮ったことのなかったような写真が撮れたら、それはそれで良いな、という気持ちもある。切り口を変える能力というかセンスというかアイディアというか。そういうのをやっていきたい気持ちもある。こちらの方が難易度は高いが。まぁ結果として同じようなものができても、まぁ良いじゃない、くらいの感じで。やはり同じことの繰り返しだと飽きるので、たまには趣向を凝らして。ここら辺、正直自分でもまだ迷いがある部分。

・人物写真というよりも、風景の中にぽつんと人物がいる、くらいの写真の方が得意なのかもしれない、と思えてきた。人物も風景を構成する一つの要素に過ぎない、みたいな。かといってそれはストリートスナップに写り込んだ人、というほど匿名性のある存在ではなくて。音楽で例えるならば、ボーカルが前面に出ていて、他の楽器はあくまで伴奏に過ぎない、というのではなく、ボーカルも楽器の一部でしかなくて、バンドサウンド全体で聴かせる、みたいな。ポストロックとかシューゲイザーのような。僕が撮りたい写真は、決してJポップみたいな、誰がどう見ても綺麗な写真、ではないはずだ。たぶん。とはいえ、やはりここら辺は常に模索中。でもどうしても暗い、とかアンニュイ、とか言われるような方向に向くよね。根暗な人が撮るとそうなるのか。

・あまり「作品撮り」という感覚がなくて、「作品撮り」という言葉に違和感を覚えるくらいだったのだけれど、それはただ単に記念写真を撮らないからであって、つまるところあまり旅行とかに行かないから。つまり全てが作品撮りだったから、作品撮りという概念がなかった。日常も作品にしちゃっているのだ。日常を切り取って見せる、という感覚ではないけれど。

・適当に撮った雑な感じの写真がインスタでフィーチャーされてしまったので、今まで拘って撮ってきたものは一体何だったんだ…という気持ちになっている。結局美しければ何でも良いし、何でもアリ。撮った方の努力とかは、見る方には関係がない。美しさ、とは。

・インターネット、SNSで知り合っただけの、希薄な関係性の被写体を撮って何になるのだ、と思う時もあるけれど、これも結局出来上がったものが美しければそれで良いのでは。というか関係が希薄なのは、もとい関係を希薄にしているのは、僕の方なのかもしれない。けれど、僕はただのコミュ障なので他人との距離の測り方が分からない。難しい。

・ちょっと逸れるけど、路上スナップで通行人、とりわけ若い女性が写り込んでる写真ばっかり撮ってる人って、結局、人を撮りたい、若い女性を撮りたい、と思ってるんだろうから(バレバレである)、いっそのことポートレートを撮れば良いのに、と思う。そんな盗撮みたいな(というか厳密には盗撮だけれど)写真ばっか撮ってて楽しいのかよ、と思ってしまう。楽しいのなら良いけど…。自撮りとかSNOWとかに飽きた女の子が次にやるのが被写体、という話らしく、被写体は流行っているらしい。本当だろうか。いずれにせよ、撮りたい人>撮られたい人という圧倒的な数の断絶はあると思う。

・暗いね。アイネ・クライネ・ナハトムジーク。僕はあまりストロボを使わない。使うのは、スローシンクロをやりたい時、雨を撮りたい時、くらいか。フィルムカメラの内蔵ストロボは、どうしても暗い、って時に使うことがあるけれど、デジタルでは暗くてもISO感度を上げて撮る。かなり暗い印象の写真になるけれど、そこにない光を使ってしまうことの方が抵抗がある。そこにないものは、なるべく写したくない。まぁ今はRAWで撮るようになったから、暗い分にはある程度後から救えるし。何にせよ、α7Sというカメラの力が大きい。もうこれ一台でも良いんじゃないかとさえ思い始めている。暫くはフィルムで撮ることもないのではないかと思う。少なくとも作品撮りはデジタル+Lightroomで現像、だなと。けど、敢えてフィルムでも撮ってみようかというのもある。デジタルで撮ったやつもフィルム風に現像しているので、どれがフィルムでどれがデジタルなのか分からなくするという試み。境界線をなくす。フィルムとは?デジタルとは?表現したいものは何?アナログに拘ることの重要性が分からなくなった。というか揺らいできている。ロモに殺されそうなことを書いてしまった。

・フィルムの質感そのものは好きだけれど、上がってきた現像の色味が全然好きじゃない時があって、しかも容量の小さいJpegだからあまり弄れない、そもそも色情報が残ってない、みたいなことが多くて。だから自分好みにLightroomで現像(意味合いが違うが)する方が良いなと思ってしまっている。フィルム以上にフィルムっぽくて、色味も自分好み。正直これ以上のツールなんて無いんじゃないかなと思う。

・自分の写真を見返していて、もっとモデルに動きが欲しいなぁと思った。日の丸構図で立ってるだけみたいなのが多過ぎる気がする。というわけで、動きのある感じをちょっと撮ってみた。ブレたりピント外したりしてるのだけれど、それはそれで良いなと思った。けど、こういうのばっかやってても何か違うかもしれないなと。一言で言うと、不自然かもしれないな、と思う。何で立ってるだけの写真ばかりになるのかというと、それは被写体に変な・不自然なポージングをさせるのが好きじゃないから、という理由が大きい。あと、こういうのはモデル次第というか、撮影者側の力だけでは難しい部分もあるなとは思った。相性とか作風と合うかどうかとか含めて、ポートレートにおいて被写体の力量とか、被写体の魅力というのは大事なのだなと。当たり前だけど。

・自分の好きな写真家の写真を見ていると、やっぱりもっと被写体の力が抜けているように思う。無理に笑顔を作る必要もないけれど、柔らかさは必要。僕の写真に写っている人は、まだまだ硬い。僕の側に力が入り過ぎなのか。写真って、もっと適当で、自由で良いのでは。と、思ってやってみることにする。適当にシャッター切りまくることができるというのもデジタルの強みだし。

・「街中で撮るのが初めて」という人に会ったのだけれど、僕は逆に街中でしか撮ったことがないから、意味がよく分からなかった。撮りたいものは、セットアップではない。日常っぽいけど日常じゃない、現実と演出の境目が曖昧なもの。街そのものはセットではなくリアルなもの。街の中にある、美しいもの、変わったもの、面白いもの、違和感のあるもの。そういうのが好きなのかもしれない。

・何で写真を撮るのか、良く分からないけれど、写真が好きだし、写真を撮るのが好き。答えは見つからないけれど、答えが見つかってしまうことの方が怖いというか、簡単に答えが見つかってしまったら、つまらない。分からないから突き詰めたくなる。

最近思ってたことを。以前から少しづつ書いていたものだし、箇条書きなので話があっちに行ったりこっちに行ったりして全く纏まっていないけれど、自分のために書きました。写真は最近撮ったやつ。自画自賛だけど、最近の自分の写真は割と好きだ。でもこんなもんじゃないでしょう。まだまだ先がある。まだまだ上に行ける。

ポートレートの新しい教科書

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