地方都市の夕景

音楽と写真

2019年の終わり

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早いもので年の瀬ですね。


皆様お疲れ様でした。
そして、今年も当ブログを読んで頂きありがとうございました。

まずは機材の話から。今年買ったレンズは以下の3つ。

SONY Vario-Tessar 24-70mmF4
新婚旅行に持っていくために、ということで標準ズームを買ってみた。まだ予定は組めていないけれど。
ネットではかなり評判の悪いレンズ。確かに写りは甘い。けど、色乗りは普通に良い感じ。
まぁ小三元のズームなんてこんなもんでしょ。安いし。

ZEISS Batis135mmF2.8
同じスペックのヤシコンSonnar2.8/135を使っていたのだけれど、135mmでMFはかなり疲れるので、AF使えるこいつを導入。
写りは滅茶苦茶に良い。しかし絞っても絞ってもボケるので使い所は限定されるか。お花畑とか撮るとめっちゃ良い。

SONY Sonnar 35mmF2.8
F1.4を買う時に売ってしまったのだけれど、このレンズの軽さ・小ささはやはり正義だ!ということで買い直した1本。
コンパクトなシステムで出歩きたい時に重宝する。AF早いし、写りも開放からシャープ。
実はこのレンズこそソニーEマウントの真骨頂だったのではという説もある。


来年は買わないのが目標(と毎年言ってる気が)。というかもう一通り揃ってしまったからな。
強いて言えば中途半端な画角のレンズで気になるのはあるけど。Batisの40mmF2とか、サムヤンの45mmF1.8とか、シグマの45mmF2.8とかね。
でも40mmって35mmとほぼ同じだし、サムヤンはなんか安っぽいし、シグマはせめてF2ならな…という感じで購買意欲は唆られない。

フィルムカメラは辞める予定だったけれど、結局フィルムを使い切れなかったので残りの機材で来年も続投。
しかしキヤノンのレンズは下取りに出してしまったため、ニコンFマウント用のコシナプラナー1.4/50をマウントアダプター経由で使っている。MFかなりきついけれど。
いつになったらフィルムが全部なくなるのか分からない。まぁフィルムで撮りたい気分の時に使いましょう。


そして一番大きかったのは、というか大きい買い物だったのは、家でしょう。
賃貸を解約し、都内某所の古いマンションの一部屋を買った。
中身はスケルトンからリノベーションしたので綺麗だし設備も新しくて快適に過ごせているけれど、共用部はどうしても古いので色々と難があることは認めざるを得ない。
何より、大きな地震が来た時にどうなってしまうかというのはちょっと読めない部分がある。地盤は割と良い地域ではあると思うのだけれど。
まぁ首都直下地震が来たら、首都圏のどこに住んでいても同じでしょ、という諦めみたいな部分もある。悲観的に生きたところで何も生まれはしない。


他に今年って何かあったかな?と思ったら、例の写真集を作ったのは今年だった。写真新世紀には勿論落選した。
収益的には赤字ではあるけれど、格安で写真集を作れたと思えばかなり安いものである。良い経験になった。
あれ以降、僕の写真に対するスタンスというのも変わった気がする。諦めがついたというか。


そうだ、ジムに通い始めたのも今年の初め頃だった。今や完全に日常の一部と化しているけれど、軽い筋トレとランニングが日課となっている。
継続していくことが大事。継続は力なり、というのは本当で、この僅かな期間でも僕より後に新しく入って来て、最近めっきり見かけなくなった人も沢山いる。
お互いに会話はしないけれど、いつも来ている人というのは何となく分かる。結局皆、続かないのだろう。そういうものだ。ジムは「行かないのに払い続けている会費」で利益を上げている。


あとは、ヒゲ脱毛を始めた。先日3回目の照射をした。まだまだ先は長い。10回はやらないとヒゲはなくならない。否、何度やっても結局0にはならないのだけれど。


年単位でどうのこうの、という生き方をしているわけではないから、1年が終わって次の年になったとしても何も変わることはなく、また同じような日常が巡り巡っていくだけなのだけれど、とりあえず2019年のまとめとして書いてみた。

来年も当ブログを宜しくお願い致します。
良いお年をお迎え下さい。

お引越し

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引越しします。これからはライブドアブログで!

という話ではなく、またもや物理的な引越しの方です。只今我が家は段ボールだらけになっています。新居は近所なので壊れ物等についてはある程度自分で運んだ。おかげで肩を中心に謎の筋肉痛。
賃貸物件の限界を見たので購入しました。ローンも組んだし自己資金もかなり使った。自己資金というか親の金だが。しかし、田舎の材木屋に何故そんな金があったのかは謎である。不動産業もやっていたようだから、土地転がしでもしていたのだろうか。上手いこと運用していた、などと母は言っていたが、運用していた当本人はとっくの昔に死んでいるので詳細を訊く術もない。大人になってから思うことだけれど、あの人ともっと話しておけば良かったとか、もっとああしていればこうしていれば、などと思っても後の祭り。歴史にifはない。そして昔の自分なんて、凡ゆる意味で今の自分とは別人なのだ。小学生が祖父に不動産売買のノウハウを訊くなんてまず有り得ないことだろう。こちとら夏休みの宿題をこなすのに必死だったのだ。

残った僅かなお金は再び定期預金に入れて凍結させた。しかし定期預金の金利はかなり安い。しかもここ最近どんどん下がっている。メガバンクだと0.01%とかが当たり前。ほぼ意味がない。ネット銀行系だと0.2くらい。良くて0.3%という。まぁ何もしないよりかはマシだし、株とかは上がったり下がったりするのが気になってしまい耐えられないので僕には向いていない。故にもうこれしか選択肢がない。

購入した物件は立地こそ良いものの、築50年オーバーで旧々耐震、おまけに土地は借地である。返済能力はOKでも物件がNGで銀行からは融資が受けられず、ノンバンクからの融資となった。金利高いよ…。中身はリノベーションしてあるので新築のような雰囲気になっているけれど、訳あって所々歪な仕様になってしまった。まぁ仕方がない。管理はちゃんとされているみたいだから良しとしよう。しかし首都直下地震が来たらどうなるか分からない。耐震補強なり、建て替えなり、今後どうなっていくのかは誰にも分からない。不確定要素が多いというのもなかなか、メンタルに堪える。

盲点だったのが玄関のドアで、所謂団地の鉄ドアみたいな郵便受けと牛乳瓶受けが一体化した古いタイプのドアなので鍵交換も困難だったし、ドアに穴を開けないとクローザーも付けられない。外からの冷気も入ってくるし、光は漏れるし音は聞こえるし。それでも、他の設備は新しいし、立地は良いし、多少広くなったし、日々の生活の満足度は上がるのではないかと思っている。ペットも飼えるから、落ち着いたら猫を飼おうと思う。ネコと和解せよ。

もうこれ以上に高い買い物をすることもないだろう。車も興味ないし、ギャンブルもしないし、キャバクラも風俗も行かないし。それら以上に危険なカメラ・レンズ沼も一通り揃えてしまったとことで落ち着いたし。とすると、僕の人生は一通りこれで完成というか、もうこれ以上望むものはないのかなという感じになってくる。あとは年老いて死んでいくだけなのか。怖いのは地震だなー。最近関東で地震頻発し過ぎだし。そして、いずれは必ず建て替えになってしまうだろうから、その時に負担金が出せるのかどうか。うむー、結局どこまで行っても安心なんてしていられないな。例えば一生安泰なくらいのお金を持っていたとしても、今度はそのお金を盗まれたり騙し取られたりする恐怖と戦わなければならない、みたいな話で。そして人は皆、老・病・死には抗えない。若者の場合のそれはお金・病気・失恋だと、以前ゴールデン街であったオッサンは言っていたが。僕はもう若者ではなくなりつつあるのだなぁと思うと、人生というものについて考えてしまう。住宅ローンを組むとなると、何十年後の話ばかりされるのだけれど、そんな先のことなんて分からないよ、と何度も何度も思った。明日交通事故で死ぬかもしれないし、それは明後日かもしれない。先のことなんて誰にも分からない。だから考えても仕方がないのだけれど、それでも考えずにはいられない。そして、どうしても悲観的な考え方をしてしまう。それが人間のサガだ。というか、僕の宿命なのだろう。決断は早いけどちゃんと考えている、などと仲介業者には言われたけれど、当然だ。まず先に考えないと動けないタイプの人間だから。色々と脳内でブレーンストーミングした結果、選択肢がこれしかなかったというだけの話だ。選択肢は少なければ少ないほど良い。迷いが生じないから。そして、結局はそれが宿命なのだ、何をどうしてもこうなる運命にあったのだ、と思う。例えば今回の物件を買わなかったとしても、結局同じような条件の他の物件を買っていたのだろうと思うし。

運命を受け入れて生きていくしかない。人生、自分でコントロールできることなんて極僅かなのだ。最近よく思う。僕は一連の大きな流れの中で流されるように生きていて、自分で決めているようなつもりになっているけれど、実は自分の意思とは無関係に流されているだけで、勝手に色々と物事が決まっていく。否、その「大きな流れ」が物事を勝手に決めていく。そして僕はそれに抗うことはできなくて、受け入れていくしかない。それが僕の人生であり、今の僕の全てなのだと。それが正しいのかどうかは良くわからない。むしろ「正しい」とは何なのかという話になってくる。「正しい」とは価値判断だから、絶対的なものではない。それは誰にとって正しくて、誰にとっては正しくないのか、ということだけが問題だ。果たして僕は正しく生きているのだろうか。

器用貧乏

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昨日の続きみたいな感じ。

誰しもが何らかのコンプレックスを抱えているのだと思うし、例に漏れず僕にも沢山コンプレックスはあるのだけれど、その一つが「何一つとして突き抜けたものが無い」ということである。どんなことでも、大抵はある程度できるようになる。それなりに評価されるレベルにはこなせるようになる。でも、それなりなのだ。人並外れて、誰も到達できないようなレベル感で何かができるようになったということが一度もない。僕は何ももっていない。何もできない。無だ。鬱だ。死のう。とまでは思わないが。

ギターもベースもドラムも歌もできるけれど、一応形にできる、どこのバンドでもそれなりに卒なくこなせる、というレベルでしかなく、どれも中途半端だ。DTMで作曲もできるし自分の音楽はひょっとしたらどこかの誰かには刺さるんじゃないか、と思ってみたりもしたけれど、自分以外の誰かが自分の音楽に反応してくれた試しが無い。写真だってある程度は上手く撮れるけれど、突き抜けて上手いというほどではない。運動は嫌いだからダメだけれど、持久走とか水泳とか、個人プレーなら得意だった。とはいえ、全国大会で優勝するとかいうレベルではない。学年で中の上くらい。雑魚だ。勉強はそれなりにできた方だが、東大には入れなかった。女の子に全くモテなかったわけでもないけれど、モテてきたとは言い難い。異性に限らず、人間関係は上手く行かなかったことの方が多い。他人と長期的な関係を築くのが苦手だから、嫌になってすぐに別れてしまうし、友だちもできない。

要するに何一つとして突き抜けたものがない。器用貧乏そのものである。突き抜けた何かが欲しい。何でもすぐ虚しくなったりつまらなくなったりして飽きてしまうから、何かを極めるということに向いていないのかもしれない。写真は自分に向いてるんじゃないか、とか思ったけどそうでもないなと最近よく思う。向いてないとまでは思わないし、それなりのものをそれなりにアウトプットはできるのだけれど。でも「それなり」止まりなんだよなぁ。美大に行って芸術の勉強でもする?でも今、美大では素人が教えているらしい…。あとはアーティストとして素晴らしい人が教える人として素晴らしいかというとそうではないからな…。

結局、自分が持ってないものを持ってる人とか、自分にできないことをできる人とかに嫉妬したり劣等感を感じたりするんじゃなくて、自分が持ってるものを生かしたり、自分にしかできないことを突き詰めていくしかないんだろうな。でも、僕は何も持っていない、何もできない、と思ってしまうことが最近多くて、途方に暮れている。やはり猫を飼うしかないな。ネコと和解せよ。

押すだけで何かを表現したような気になっていた

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ついにライトルームもフォトショップも互換性がなくなってしまったので、SierraからHigh Sierraにアップデート。

重くなったり不具合出たりするのが嫌だったから、本当はアップデートしたくなかったのだけれど。自分の力ではどうにもできないことばかりだ。人生とはそういうものなのか。自分の意志で始めたつもりのことでも、いつの間にか自分ではどうすることもできなくなってしまっていたり、自分だけの力では手に負えなくて収集がつかなくなってしまったり。結局のところ、僕自身の軸がブレていて、汎ゆることをふわふわとやっているからそんなふうになってしまうのだろう。俺はなんてダメなんだ。生きている資格がない。鬱だ。死のう。とまでは思わないけれど。

以前の自分がなぜそこまで偏執狂的にそんなことにのめり込んでいたのか、ということは、後になって、時間が経って、冷静になって、ある程度客観的に見られるようになってからでないと分からないものだけれど、まぁ人生ってそういうことの繰り返しなのかなと思う。少し前の自分にとってのそれは、特定或いは不特定の女の子の写真を撮ることだった。所謂ポートレート写真。女の子でなければならない理由も必然性もなかったけれど、男の子のモデルを探すのってなかなか難しくて、結果的に女の子ばかり撮っていた。何のために撮っていたのか、それは何に使う写真なのか、と言われると特に答えはなくて、インスタに上げるくらいのものなのだけれど(後に写真集を作ったりもしたが)。妻には「そんなのやる意味が分からない」と言われたけれど、確かにそうだ。僕自身、何でやっていたのかと言われると今となっては分からない。
積極的に良質な写真をアップして、インスタのフォロワーを増やして、フォロワー1万人を目指す!目指せ、インフルエンサー!とか思ってた時期もあった。ある程度の所で頭打ちになってしまったが。しかしそれ以上に、どういう写真が他人にウケるのかとかは全く考えていなかったし、分かりもしなかった。未だに分からない。一番手っ取り早いのは、「インスタでウケている写真」を只管パクりまくることだろうけれど、僕はそういった写真の影響を受けるのが絶対に嫌だったから(全く影響を受けないというのも難しいけれど)、兎に角自分が納得できる写真を撮ることに徹したつもりだった。これは今でもそうだけれど、「自分が良いと思っているものが不特定多数の他人に受け入れられる」ということ、これが一番理想としていた形ではあった。勿論、そんなの実際には無理なのだけれど、「どこかで見たことあるような写真」みたいなのを僕が撮っても仕方がないとは思っていた。
自分の武器で戦うこと。自分の中から湧き出てきたヴィジョンを具現化すること。自分のやっていること、やりたいと思っていることがたまたまポピュラリティを得やすいものだったのならば、それは人気が出る可能性が高いが、ポップスが好きなわけでもないのにこういうのが売れるから…と無理やりポップスを歌っても売れないだろう。僕はロックをやり続けるしかないのだ。雑で不器用なロックを。

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ここまでダラダラと書いてきて、自分のことだから甘くて、まだ核心に踏み込めていないなと感じた。要は写真って押せば写ってしまうものだから、最低限のお作法さえ覚えてしまえば、誰でもできてしまう。そして、最早デファクトスタンダードとなっているライトルームやフォトショップなんかを使えば、クソな写真でも何となく良い感じに見せかけることはできてしまう。要は、押すだけで何かを表現したような気分になりやすいし、僕は何かを表現したような気分になりたかっただけなのだろう。バンドもあまり上手くいかなかったし、音楽以外で何か表現できるようなものが欲しかったのかもしれない。DTMは正直つまらない。そしてすぐに息詰まるし、一人だとモチベーションも湧かない。締切がないと物が作れない。何よりやっぱり僕は生のバンドが好きなのだ。バンドは一人ではできないけれど、写真なら一人でできるし。実際には被写体がいないとダメだから一人ではないけれど、シャッターを押すのは僕一人だ。

厳密には違うけれど、写真は良くも悪くも押せばいいだけだから、簡単にできる、そう思われがち。ある意味でそれは正しくて、今やスマホのカメラのソフトウェアの技術も上がってきているし、誰でも簡単に写真を撮ってシェアできる時代。これほどまでに競技人口の多いジャンルというのも珍しいくらい。参入障壁が低くて競技人口が多いともなれば、上を見たらキリがない。絶対にトップにはなれない。敵わない。考えてもみろよ、最近カメラ触り始めただけの、何のバックグラウンドもない凡人が女の子の写真撮ってるだけ。そんなものに価値があるはずがないし、そんなものがポピュラリティを得られるはずなんてないだろう。そういうことを考えてやるべきものじゃないんだ、これは。趣味でしかないんだ。自分が納得できる写真を撮れればそれで良いじゃないか。

そんな単純な話だったのか?つまり承認欲求?いい写真が撮れたからSNSにアップしてみんなに見てもらいたい、いいねしてもらいたい、フォロワーが増えたら嬉しい、こういった感情は別に普通で誰もが持ち合わせているものであり、特段異常なことでもない。それを超えて、俺は写真でやっていく!「何者か」になる!となってしまうと、恐らくあまり楽しい未来は待っていないように思う。どうしたって行き詰まるし、どうしたって上を見たらキリがないのだ。そしてお前に何らの特別な才能なんてありはしないのだから。

全然書ききれていない気がするけれど、無駄なことは一つもなかったなとは思う。全てが糧となり、血肉となり、今の僕を動かしている。色々試行錯誤してみるというのも大事なことで。生まれてから死ぬまでという大きな流れの中で考えると、右往左往することの方が自然というか、人間らしいとも思える。迷わずに真っ直ぐ進みたいものだけれど、真っ直ぐ進んだ所で、その先に何があるのかといえば、何もありはしない。老、病、死。そこにあるのはそれだけなのだから。

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書いてて自分で何を言っているのかわけがわからなくなってきたので今回はここらへんでおしまい。

残り時間はあとどれくらいか 細胞に問う

全然更新しないままに10月が終わろうとしている!
妻と付き合ってから3年という記念日だったので、毎年恒例の秘密の屋上で2ショットを。
しかし、3年も関係が続いているなんて。何だか凄い。人と人との関係とは奇跡のようなものである。

台風は大丈夫でした。実家の近所では川が氾濫してたみたいだけど、実家は無事だった。良かった。
異常気象は温暖化のせい?今後は毎年ああいう大型の台風がくるのかもしれない。否、さらに強い台風が来ることも有り得る。何が起こるか分からない。未来のことは何もわからない。北朝鮮はまたミサイル発射したし。


ミニマリストになりたい願望みたいなのがあって、手始めに持ち歩く荷物を減らそう、流行りのサコッシュなんかに最低限の荷物だけ入れて外出しよう、なんて思っていたのだけれど、結局荷物を減らすのは無理だという結論になり、財布も三つ折りのコンパクト財布から長財布に戻した。レンズも55mmと35mmだけでなく、必要に応じて色々持ち出して使っている。その方が僕にとって自然だし、レンズの特性による効果やそれに基づく表現方法を使い分ける方が手っ取り早い。という当たり前の結論になった。サコッシュなんて小さ過ぎて使い物にならないよ!みんなよくあんなミニマルな荷物だけで外出できるな。財布、Wi-Fi、ハンカチ、カメラ、レンズ、フィルター、カメラの予備バッテリー、この時点でもう結構な荷物。向き不向きということを考えた。

いよいよフィルムカメラは持ち出さなくなった。デジタルも壊れるまでα7S1台で行く。というか最近あまり写真自体を撮っていない気が。撮っていないこともないけれど、以前より熱が冷めた感じはあるかもしれない。飽きたとか好きじゃなくなったということでもないけれど、最近は他の色んなことを考えなければならない時間が多かったからだろうか。あと天気悪い日が続いたからというのもある。写真がどうこうとはまた違った話だけれど、インスタをはじめSNSには辟易してきている。別に何かあったとかではないけれど、SNSの「繋がり」なんてクソの役にも立たないから。ゴールデン街にでも飲みに行って飲み仲間でも作った方が良いのだろうか。などと考える。


歳を取るのは自分の責任じゃないから仕方がないこと、と村上春樹は言っていたけれど、歳を重ねても何一つとして前に進んだり、何かを成し遂げたりできていないことは自分の責任なのではないかと思ってしまう。そもそもそんな必要なんてあるのかどうかわからないけれど。これがミッドエイジクライシス?
つくづく思うのは、僕はバリバリ働いてどんどんキャリアアップして年収を増やして…という仕事人間ではなく、ただただ目の前の仕事を淡々とこなしてそれなりに金を稼いで、仕事以外の時間で自分の好きなことをやって楽しむというタイプの人間であるということだ。おそらく僕に一番向いているのは公務員だろう。もっと早く気付いていれば…今更公務員試験の勉強なんてできないし、今からやって仮に公務員になったとしても、0からのスタートになってしまうから収入も減ってしまうし。

年内にはもうちょっとだけ広い家に引っ越せるから、色々落ち着いたら猫を飼おう。果たして新しい家で何年過ごせるだろうか。この前の台風は大丈夫だったけれど、怖いのは地震だな。かなり古い建物だから、首都直下型地震南海トラフ地震に耐えられるのかどうか。いつ起こるのか、どれくらいの規模の震災となり、建物にどれだけのダメージがあるのか。考えても仕方のないことばかり考えてしまう。未来のことなんて誰にもわからないのに。まぁ都心エリアが大規模に被災するようなことになったら、どこに住んでても一緒だと思うけれど。


何十年後にどうだとか、先のことの話ばかりされることが最近多かったから、自分の残り時間について考える。80まで生きるとして、あと50年弱くらい?どうなっちゃうんだろうね。誰にもわからない。明日死んでしまうかもしれない。そしてあの世には何一つとして持っていけない。また母親の夢を見た。末期癌で、もうそろそろやばい、みたいな夢だった。そんなのばかりだが。悲観的過ぎる?こういう人間だから仕方がない。日々を精一杯生きよう。