地方都市の夕景

音楽と写真

器用貧乏

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昨日の続きみたいな感じ。

誰しもが何らかのコンプレックスを抱えているのだと思うし、例に漏れず僕にも沢山コンプレックスはあるのだけれど、その一つが「何一つとして突き抜けたものが無い」ということである。どんなことでも、大抵はある程度できるようになる。それなりに評価されるレベルにはこなせるようになる。でも、それなりなのだ。人並外れて、誰も到達できないようなレベル感で何かができるようになったということが一度もない。僕は何ももっていない。何もできない。無だ。鬱だ。死のう。とまでは思わないが。

ギターもベースもドラムも歌もできるけれど、一応形にできる、どこのバンドでもそれなりに卒なくこなせる、というレベルでしかなく、どれも中途半端だ。DTMで作曲もできるし自分の音楽はひょっとしたらどこかの誰かには刺さるんじゃないか、と思ってみたりもしたけれど、自分以外の誰かが自分の音楽に反応してくれた試しが無い。写真だってある程度は上手く撮れるけれど、突き抜けて上手いというほどではない。運動は嫌いだからダメだけれど、持久走とか水泳とか、個人プレーなら得意だった。とはいえ、全国大会で優勝するとかいうレベルではない。学年で中の上くらい。雑魚だ。勉強はそれなりにできた方だが、東大には入れなかった。女の子に全くモテなかったわけでもないけれど、モテてきたとは言い難い。異性に限らず、人間関係は上手く行かなかったことの方が多い。他人と長期的な関係を築くのが苦手だから、嫌になってすぐに別れてしまうし、友だちもできない。

要するに何一つとして突き抜けたものがない。器用貧乏そのものである。突き抜けた何かが欲しい。何でもすぐ虚しくなったりつまらなくなったりして飽きてしまうから、何かを極めるということに向いていないのかもしれない。写真は自分に向いてるんじゃないか、とか思ったけどそうでもないなと最近よく思う。向いてないとまでは思わないし、それなりのものをそれなりにアウトプットはできるのだけれど。でも「それなり」止まりなんだよなぁ。美大に行って芸術の勉強でもする?でも今、美大では素人が教えているらしい…。あとはアーティストとして素晴らしい人が教える人として素晴らしいかというとそうではないからな…。

結局、自分が持ってないものを持ってる人とか、自分にできないことをできる人とかに嫉妬したり劣等感を感じたりするんじゃなくて、自分が持ってるものを生かしたり、自分にしかできないことを突き詰めていくしかないんだろうな。でも、僕は何も持っていない、何もできない、と思ってしまうことが最近多くて、途方に暮れている。やはり猫を飼うしかないな。ネコと和解せよ。

押すだけで何かを表現したような気になっていた

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ついにライトルームもフォトショップも互換性がなくなってしまったので、SierraからHigh Sierraにアップデート。

重くなったり不具合出たりするのが嫌だったから、本当はアップデートしたくなかったのだけれど。自分の力ではどうにもできないことばかりだ。人生とはそういうものなのか。自分の意志で始めたつもりのことでも、いつの間にか自分ではどうすることもできなくなってしまっていたり、自分だけの力では手に負えなくて収集がつかなくなってしまったり。結局のところ、僕自身の軸がブレていて、汎ゆることをふわふわとやっているからそんなふうになってしまうのだろう。俺はなんてダメなんだ。生きている資格がない。鬱だ。死のう。とまでは思わないけれど。

以前の自分がなぜそこまで偏執狂的にそんなことにのめり込んでいたのか、ということは、後になって、時間が経って、冷静になって、ある程度客観的に見られるようになってからでないと分からないものだけれど、まぁ人生ってそういうことの繰り返しなのかなと思う。少し前の自分にとってのそれは、特定或いは不特定の女の子の写真を撮ることだった。所謂ポートレート写真。女の子でなければならない理由も必然性もなかったけれど、男の子のモデルを探すのってなかなか難しくて、結果的に女の子ばかり撮っていた。何のために撮っていたのか、それは何に使う写真なのか、と言われると特に答えはなくて、インスタに上げるくらいのものなのだけれど(後に写真集を作ったりもしたが)。妻には「そんなのやる意味が分からない」と言われたけれど、確かにそうだ。僕自身、何でやっていたのかと言われると今となっては分からない。
積極的に良質な写真をアップして、インスタのフォロワーを増やして、フォロワー1万人を目指す!目指せ、インフルエンサー!とか思ってた時期もあった。ある程度の所で頭打ちになってしまったが。しかしそれ以上に、どういう写真が他人にウケるのかとかは全く考えていなかったし、分かりもしなかった。未だに分からない。一番手っ取り早いのは、「インスタでウケている写真」を只管パクりまくることだろうけれど、僕はそういった写真の影響を受けるのが絶対に嫌だったから(全く影響を受けないというのも難しいけれど)、兎に角自分が納得できる写真を撮ることに徹したつもりだった。これは今でもそうだけれど、「自分が良いと思っているものが不特定多数の他人に受け入れられる」ということ、これが一番理想としていた形ではあった。勿論、そんなの実際には無理なのだけれど、「どこかで見たことあるような写真」みたいなのを僕が撮っても仕方がないとは思っていた。
自分の武器で戦うこと。自分の中から湧き出てきたヴィジョンを具現化すること。自分のやっていること、やりたいと思っていることがたまたまポピュラリティを得やすいものだったのならば、それは人気が出る可能性が高いが、ポップスが好きなわけでもないのにこういうのが売れるから…と無理やりポップスを歌っても売れないだろう。僕はロックをやり続けるしかないのだ。雑で不器用なロックを。

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ここまでダラダラと書いてきて、自分のことだから甘くて、まだ核心に踏み込めていないなと感じた。要は写真って押せば写ってしまうものだから、最低限のお作法さえ覚えてしまえば、誰でもできてしまう。そして、最早デファクトスタンダードとなっているライトルームやフォトショップなんかを使えば、クソな写真でも何となく良い感じに見せかけることはできてしまう。要は、押すだけで何かを表現したような気分になりやすいし、僕は何かを表現したような気分になりたかっただけなのだろう。バンドもあまり上手くいかなかったし、音楽以外で何か表現できるようなものが欲しかったのかもしれない。DTMは正直つまらない。そしてすぐに息詰まるし、一人だとモチベーションも湧かない。締切がないと物が作れない。何よりやっぱり僕は生のバンドが好きなのだ。バンドは一人ではできないけれど、写真なら一人でできるし。実際には被写体がいないとダメだから一人ではないけれど、シャッターを押すのは僕一人だ。

厳密には違うけれど、写真は良くも悪くも押せばいいだけだから、簡単にできる、そう思われがち。ある意味でそれは正しくて、今やスマホのカメラのソフトウェアの技術も上がってきているし、誰でも簡単に写真を撮ってシェアできる時代。これほどまでに競技人口の多いジャンルというのも珍しいくらい。参入障壁が低くて競技人口が多いともなれば、上を見たらキリがない。絶対にトップにはなれない。敵わない。考えてもみろよ、最近カメラ触り始めただけの、何のバックグラウンドもない凡人が女の子の写真撮ってるだけ。そんなものに価値があるはずがないし、そんなものがポピュラリティを得られるはずなんてないだろう。そういうことを考えてやるべきものじゃないんだ、これは。趣味でしかないんだ。自分が納得できる写真を撮れればそれで良いじゃないか。

そんな単純な話だったのか?つまり承認欲求?いい写真が撮れたからSNSにアップしてみんなに見てもらいたい、いいねしてもらいたい、フォロワーが増えたら嬉しい、こういった感情は別に普通で誰もが持ち合わせているものであり、特段異常なことでもない。それを超えて、俺は写真でやっていく!「何者か」になる!となってしまうと、恐らくあまり楽しい未来は待っていないように思う。どうしたって行き詰まるし、どうしたって上を見たらキリがないのだ。そしてお前に何らの特別な才能なんてありはしないのだから。

全然書ききれていない気がするけれど、無駄なことは一つもなかったなとは思う。全てが糧となり、血肉となり、今の僕を動かしている。色々試行錯誤してみるというのも大事なことで。生まれてから死ぬまでという大きな流れの中で考えると、右往左往することの方が自然というか、人間らしいとも思える。迷わずに真っ直ぐ進みたいものだけれど、真っ直ぐ進んだ所で、その先に何があるのかといえば、何もありはしない。老、病、死。そこにあるのはそれだけなのだから。

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書いてて自分で何を言っているのかわけがわからなくなってきたので今回はここらへんでおしまい。

残り時間はあとどれくらいか 細胞に問う

全然更新しないままに10月が終わろうとしている!
妻と付き合ってから3年という記念日だったので、毎年恒例の秘密の屋上で2ショットを。
しかし、3年も関係が続いているなんて。何だか凄い。人と人との関係とは奇跡のようなものである。

台風は大丈夫でした。実家の近所では川が氾濫してたみたいだけど、実家は無事だった。良かった。
異常気象は温暖化のせい?今後は毎年ああいう大型の台風がくるのかもしれない。否、さらに強い台風が来ることも有り得る。何が起こるか分からない。未来のことは何もわからない。北朝鮮はまたミサイル発射したし。


ミニマリストになりたい願望みたいなのがあって、手始めに持ち歩く荷物を減らそう、流行りのサコッシュなんかに最低限の荷物だけ入れて外出しよう、なんて思っていたのだけれど、結局荷物を減らすのは無理だという結論になり、財布も三つ折りのコンパクト財布から長財布に戻した。レンズも55mmと35mmだけでなく、必要に応じて色々持ち出して使っている。その方が僕にとって自然だし、レンズの特性による効果やそれに基づく表現方法を使い分ける方が手っ取り早い。という当たり前の結論になった。サコッシュなんて小さ過ぎて使い物にならないよ!みんなよくあんなミニマルな荷物だけで外出できるな。財布、Wi-Fi、ハンカチ、カメラ、レンズ、フィルター、カメラの予備バッテリー、この時点でもう結構な荷物。向き不向きということを考えた。

いよいよフィルムカメラは持ち出さなくなった。デジタルも壊れるまでα7S1台で行く。というか最近あまり写真自体を撮っていない気が。撮っていないこともないけれど、以前より熱が冷めた感じはあるかもしれない。飽きたとか好きじゃなくなったということでもないけれど、最近は他の色んなことを考えなければならない時間が多かったからだろうか。あと天気悪い日が続いたからというのもある。写真がどうこうとはまた違った話だけれど、インスタをはじめSNSには辟易してきている。別に何かあったとかではないけれど、SNSの「繋がり」なんてクソの役にも立たないから。ゴールデン街にでも飲みに行って飲み仲間でも作った方が良いのだろうか。などと考える。


歳を取るのは自分の責任じゃないから仕方がないこと、と村上春樹は言っていたけれど、歳を重ねても何一つとして前に進んだり、何かを成し遂げたりできていないことは自分の責任なのではないかと思ってしまう。そもそもそんな必要なんてあるのかどうかわからないけれど。これがミッドエイジクライシス?
つくづく思うのは、僕はバリバリ働いてどんどんキャリアアップして年収を増やして…という仕事人間ではなく、ただただ目の前の仕事を淡々とこなしてそれなりに金を稼いで、仕事以外の時間で自分の好きなことをやって楽しむというタイプの人間であるということだ。おそらく僕に一番向いているのは公務員だろう。もっと早く気付いていれば…今更公務員試験の勉強なんてできないし、今からやって仮に公務員になったとしても、0からのスタートになってしまうから収入も減ってしまうし。

年内にはもうちょっとだけ広い家に引っ越せるから、色々落ち着いたら猫を飼おう。果たして新しい家で何年過ごせるだろうか。この前の台風は大丈夫だったけれど、怖いのは地震だな。かなり古い建物だから、首都直下型地震南海トラフ地震に耐えられるのかどうか。いつ起こるのか、どれくらいの規模の震災となり、建物にどれだけのダメージがあるのか。考えても仕方のないことばかり考えてしまう。未来のことなんて誰にもわからないのに。まぁ都心エリアが大規模に被災するようなことになったら、どこに住んでても一緒だと思うけれど。


何十年後にどうだとか、先のことの話ばかりされることが最近多かったから、自分の残り時間について考える。80まで生きるとして、あと50年弱くらい?どうなっちゃうんだろうね。誰にもわからない。明日死んでしまうかもしれない。そしてあの世には何一つとして持っていけない。また母親の夢を見た。末期癌で、もうそろそろやばい、みたいな夢だった。そんなのばかりだが。悲観的過ぎる?こういう人間だから仕方がない。日々を精一杯生きよう。

何時だって今が

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最近街中でよく見かけるような小さいサコッシュなんかでは、流石に僕の持ち物を全部収めるには小さ過ぎると思うけれど、そこまでではなくとも、ちょっと持ち物を減らしてみたいと思うようになった。そういえば少し前に浴衣を着た時、どうしても荷物を減らせなくてトートバッグを手に持ちながら歩いたのだけれど、あれは不便で仕方なかった。交換レンズは一つだけとはいえ、馬鹿でかい重量級レンズだったし、ストロボやフィルターも全部は置いてこれなかった。最小限の装備で良いような時はできる限り削ぎ落としたい。今日は撮るぞ!という時に荷物が増えるのは仕方がないとしても。

手始めに、財布をコンパクトなものに替えた。お札が折れ曲がるのが嫌でずっと長財布を使っていたのだけれど、長財布は当然嵩張るし、最近は殆ど現金を使わなくなったのもあり、片手に収まるような三つ折りのタイプにした。カード類は入りきらないので、カードケースを別に持つことにして。

次に、レンズを何本か売って(ドナドナ)、そのお金で以前使っていた小さいレンズを買い直した。ソニーの35mmF2.8。売ったり買ったり売ったり買ったり、本当にどうしようもないなと思う。3年程前に直感的に買ったα7Sは、当初はオールドレンズ専用機になってしまっていたけれど、やはりAFがないと不便だな、と思って買ったのが55mmF1.8と35mmF2.8だった。後に35mmF1.4が欲しくなってしまい、これを買う時にF2.8の方は売ってしまったのだけれど、やはりあのコンパクトさは何者にも代え難い魅力だったのだと今更気付いた。それから16-35mmズーム、85mm、24-70mmズーム、135mm、と一通り揃えてしまった今になって思うのは、55mmと35mmだけで頑張っていた頃の写真の方が何となく良く見えるということだ。勿論、技術的には今の方が進歩しているし、機材も増えて表現の幅は広がったのだけれど、やはり選択肢が少ない方が、その少ない選択肢の中でどうするか?ということを考えるから、結果的に良い写真になっていたのかもしれない。機材が増えれば増えるほど、機材に踊らされてしまうような部分はある。

だからといって、手持ちの他のレンズを全部売り払う、というわけではないけれど、一旦55と35の二本をメインにミニマルな装備で撮ってみることにした。敢えて原点に戻ってみたくなったのだ。フィルター系もよく使うやつだけにして。ストロボも、もっとショボくて良いからコンパクトなやつがあれば良いのだけれど。マニュアルで光るだけのような。

久しぶりにこのレンズをカメラに装着してみて、これだよこれ、やっぱりこれだよ、と思った。笑っちゃうくらい軽くて、カメラのハンドリングがかなり軽快になる。まるでコンデジでも扱っているかのような。F2.8だからあまりボケないし、35mmの割には寄れないし、弱点は色々あるものの、この小ささ、軽さにおいては右に出る者はいない。そしてカールツァイス銘は伊達ではなく、色乗りの良さやシャープさにははっとさせられる時も。

今やソニーに続いて、キヤノンニコンパナソニック、シグマ、と各社フルサイズミラーレスを出してきて、カメラ業界はフルサイズミラーレス戦国時代みたいになっているけれど(とはいえそんなに売れてはいないらしい。当然だ。高価すぎる)、ボディは色んな機能を追加するためにどんどん巨大化し、レンズもデカくて高いのばっかりが出てきている。光学性能を突き詰めていくとそうならざるを得ないのだろうけれど、結局デカくなってしまうのなら、一眼レフからミラーレスに変わった意味はなかったのでは?と思ってしまう。
ソニーのα7シリーズも、結局ちょっとずつ大きくなってきてしまっているけれど、僕は初代のα7シリーズのコンパクトさが好きで、そのコンパクトなボディに合うのはやはりコンパクトなレンズなのだ。明るさよりもまず、小ささ軽さ。SEL35F28Z Sonnar T* FE 35mm F2.8 ZAというレンズこそ、実はソニーの最高傑作なのではないかと思っている。なぜなら、フルサイズでAFが使えてこんなに小さくて軽くて写りの良いレンズは他にはないから。分かりやすく大きいボケが得られるわけでもなく、そっけないと言えばそっけない写りをするし、35mmという画角自体が普通に取ると普通の写真になりがちと言うか、玄人好みのレンズだなと思う。

そういえば、キヤノンのレンズもドナドナしてしまったから、eoskiss5で使えるレンズが元々付いてたズームレンズだけになってしまった。しかも、時たまエラーを吐いて動かなくなってしまう昔のシグマのレンズ。そしてeoskiss5とも近々お別れする予定。そうすると、最早コンパクトカメラとトイカメラしかなくなってしまうのだけれど、これで漸くフィルムともお別れできそうかな、というところ。まだ冷蔵庫にフィルム残ってるけれど。

何時だって自分が生きているのは今だけで、今が全てだ。先のことはどうなるか分からない。そう言い訳して散財ばかりしているような気がする。しかしいくら貯金したところで、あの世まで持ってはいけないしなぁ。あるいは年取って身体が不自由になってからじゃ、楽しめるものも楽しめないし。同時に、ミニマリストになりたいとまではいかないけれど、不要なものをたくさん溜め込んでいても仕方がないなと最近よく思う。明日死ぬかもしれないし、今日死ぬかもしれないし。欲しいものは買って、要らないものは売っていこう。なんとも当たり前な結論になってしまった。

男性的な写真

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自分の写真は恐らく男性的な写真なのだと思う。ゴリゴリのマッチョを撮っているとかそういう意味ではなく、(自分ではあまり分からないけれど)人から見れば、男が撮っている写真だと一発で分かるだろうということ。最近そんなことを考える。


男性的な写真を構成する要素とはなにか。

・被写体が主に女性である
→勿論、女性が女性を撮ることも多いけれど、男性が男性を撮っている例は少ない。

・ロケーションや背景に人工物が多い
→女性的な写真は公園、お花畑、海岸、部屋の中なんかが多いだろうか。
 こちらの方が「男性的な写真」を決定づける要素として大きい気がする。
 撮っているものや場所が硬いか柔らかいか、みたいな。

僕は意識してあまり他人の写真を見ないようにしているので、偏見かもしれないけれど、例えば工場夜景が好きな女性とかいるだろうか。廃墟とか屋上とか螺旋階段はどうか(これは僕の趣味)。夕焼けは男女関係ない気がするな。星景写真はどうか。ストリートスナップは男性的だと思う。撮り鉄はおっさんしかいないような。

僕は性自認は男だし恋愛対象は女性だけだ。自分が男性であることからは逃れられない。世界中のレイプ犯と同じ身体の仕組み。男性であるというのは自分を構成する一要素だから、つまり自分が自分であることからは逃れられないということ。どこまでいっても自分は自分でしかない。ある日突然特別な能力や才能が芽生えて変わるということもない。配られたカードで戦うしかないのだ。勿論、男性的な写真はダメとかそういう意味ではない。


以下、ここ1ヶ月くらいで撮ったものの中から適当にピックアップ。

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例えば前立腺がんで睾丸摘出、となると、男性ホルモンが作られなくなるからホルモンバランスが崩れ、更年期障害のような症状に見舞われてしまうらしい。一気に落ち込んでしまうと。テストステロンはやる気とか意欲を司るから、頷ける話だ。MtFの人が睾丸切除することもあるけれど、ああいった人たちは女性ホルモンを打つから、それでホルモンバランスを保つということらしい。故に精神的に不安定にはならない?宦官とかカストラートのことも調べたけどよく分からなかった。

かなり話が逸れてしまったけれど、男性的な写真、女性的な写真、というのは絶対にあると思っている。LGBTの人たちが撮る写真というのも何らかの傾向を示すものなのだろうか。もし宦官やカストラートに写真を撮らせたら?


男性が撮る男性的でない写真、女性が撮る女性的でない写真、というのを見てみたい。ただ、意識的にそれをやろうとしてやっている、となると違う気がするけれど。

いつものように特にオチや結論はありません。