地方都市の夕景

音楽と写真

フィルム世紀末

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フィルムは確実に終わりに向かって行っている。
6月から、何度目か分からない値上げもされた。1本1000円以上するフィルムなんて、ちょっと前は高級品扱いだったけれど、今やそんなのは当たり前になってきた。はっきり言って、最早フィルム写真をやるのはコストがかかり過ぎる。フィルム写真とは、一部のマニアックな愛好家の趣味でしかない。それは当然の前提として。

アマゾンで軽く調べた程度だけれど、今現在出来る限り安くフィルムを買うのなら、ということで少しまとめてみた。
ちなみに最後の砦だと思っていたロモは大幅に値上げし、最早気楽に買える値段ではなくなってしまった。残念極まりない。


24枚撮りも36枚撮りも現像代は同じなので、36枚撮りの方がコスパが良いだろうということで36枚撮りのみピックアップ。
汎用性から考えるとできればISO400を使いたいところだけれど、現状だと晴れた昼間に撮影することを前提として、ISO200のフィルムをメインにした方が良いかもしれない。

Kodak GOLD200 36枚撮り 10本 4280円 → 1本428円

・FUJICOLOR C200 36枚撮り 10本 4580円 → 1本458円

Kodak Color Plus200 36枚撮り 10本 4780円 → 1本478円

ISO200で妥協するのなら、このあたりが一番安いだろう。
少し前なら、このくらい出せばISO400の36枚撮りが買えたのだけれど…



いや、ISO200じゃちょっと心許ない、室内や夜間の撮影もするからISO400で、というなら、選択肢はこれらしかない。

FUJIFILM SUPERIA X-TRA400 36枚撮り 3本 1920円 → 1本640円

Kodak ULTRAMAX 36枚撮り 10本 6480円 → 1本648円

ここら辺のフィルムにしたって、いつ供給がなくなってしまうか分からない。
出来る限り安いうちに買い溜めしておく、というのはフィルムフリークなら皆やっていることだとは思うけれど、本当に先が見えない状況だ。

個人的には、モノクロフィルムの復活なんてしなくて良いから、ネガフィルムの値上げをしないで欲しかった。
まぁ無理な話だろう。フィルムは赤字部門なんだから。値上げして製造を続けてくれているだけでもお情けみたいなものだ。

自分は今あるフィルムを使い切ったらフィルムからは撤退して、デジタルだけのワークフローでやっていくつもり。
フィルムでしか撮れない写真というのはないけれど、デジタルでないと撮れない写真というのは確実にあると思うから。

それでも、フィルムには夢があると思う。夢を見させてもらった。ありがとう、フィルム。

ちなみに今回の写真はiPhone8plusで撮影。iPhoneも結構いけるよね。

猟奇的なキスを私にして

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タイトルはゲスの極み乙女。ですが、今回は不倫の話とかではなく。

ツイッターで例の写真を貼ったらアカウントをロックされてしまったので、はてブロでも同じようなことになるかも。ということで貼りはしないけれど、ちょっと検索したら出てくると思うので。先日起こった、新宿区でガールズバー店員の女性がホストの男性を刺して現行犯逮捕された、例の殺人未遂事件の写真。なぜあんな写真が流出しているのか分からないけれど、血塗れの女が全裸の男を刺した後で一服しながら電話している、あの写真に強い衝撃を受けてしまった。これこそが写真だ、これが本物だ、と思った。まるで映画のワンシーン、というか、あれはもう映画でしかない。ピューリッツァー賞ものじゃないかと本気で思う。ちなみにそれをモチーフにした曲まで作ってしまった。後日公開。

カメラがどうとかレンズがどうとか、フィルムだのデジタルだの、そんなことは全部どうでも良い。例えば東京カメラ部なんかで取り上げられているような、フォトショップで加工しまくった果てにCGみたいになっている、最早フォトショ選手権でしかないのではないか、というような「写真」は、あのスマホで撮られたと思われる猟奇的で衝撃的な写真に勝てるのだろうか。


ただ、猟奇的であれば良いとか、グロテスクな要素を含んでいれば良いとか、そういう話ではない。血糊を塗ってあれの真似をすれば良いとか言う話でもないのだ。それもやりたいけど(今回の写真はたまたま?二年前に撮っていた廃墟での写真。血だらけ、という共通項があったので。被写体は当時の彼女、つまり今の妻です)。

しかし写真とは何なのかという根本的な問いに対して、僕はあれこそが写真だと思ってしまった。あの圧倒的なリアルさ、生々しさを前にしたら、フォトショでバキバキに加工してCGみたいになってる写真にポエム添えて自己陶酔してるような奴らの「写真」なんてゴミでしかない。あれこそが!写真だ!と、思うくらいに衝撃を受けてしまったのでこの記事を書いた。

写真やってる人で、あの写真を見て何も感じなかったとしたら感性が腐っていると本気で思う。それでいて東京カメラ部のバキバキCG「写真」にいいねとかしてたらもう最悪。なんてのは嘘で、価値観は人それぞれだろう。例えとして分かりやすいから東京カメラ部を比較対象として出しただけで、東京カメラ部に特に何の恨みもありません。


僕に足りないのは狂気なのかもしれない。けれど、凡人が狂ったフリをするほど寒いものはないし、そんなのは見透かされてしまうものなので、結局の所自分は自分なりにやっていくしかない。のだけれど。

CGみたいな写真?絵?をつくる、それを黒いTシャツで頭に鉢巻巻いたラーメン店主みたいに俺の魂の一杯を喰らえ!これが作品じゃ!みたいにネットにアップする、ってなんか好きじゃないんだよな。SNS時代に写真で人気者になろうとすると、そういうやり方でやらないといけない、というのは分かるけれど。でももっとサラサラっとしていたいというか。あと、結果的にそうなってしまうのは仕方ないとして、他の人と同じような写真を撮りたくない。この構図、よく見るよね、みたいなやつ。以前から何回も書いているけれど、無意識にそういうところに影響を受けてしまうのが一番怖い。


カメラを持つと自分が何か特別な能力や才能を持っているかのように錯覚しがちだけれど、カメラって押せば写るってだけのものだから、ただ押しただけじゃ作品とは言えないし、何の意味も価値もない。機械の扱い方なんてのは当たり前の話で、それ以外の部分、とりわけファインダーの向こうにあるもの、そのもの自体が重要だ。だから通常、写真とは記録に使われるわけで。

結局の所、そんなに凄い景色や光景や瞬間が眼の前に現れることってそうそうないから、もしそういう場面に出くわした時、サッとカメラを構えて適切な設定で撮れるか、というところ。あとは、毎日通る何気ないそこら辺の道なんかから、いかに美しいものを見出していくか。つまりは着眼点と発想。


要するに、作り込まれたものよりも、リアルなものの方が僕は好きです、というだけの話で1800字近くも書いてしまった。ダラダラと長文書くの得意です。

実は、ちょっと前に書いた記事です。

世界の終わり

世界の終わりについて考える。
決して、ミッシェルガンエレファントの曲のことではないし、SEKAI NO OWARIについてでもない。ちなみに花鳥風月という曲が好きだ。あとは幻の命とか、インスタントラジオとか、眠り姫とか、RPGとか。



世界の終わり / thee michelle gun elephant




閑話休題


世界の終わりとは、即ち自分自身の死である。僕はいつどこでどうやってどのような理由でどのように死ぬのか。これはいつかは必ず訪れる、避けようのない事実である。

1年前に母親が亡くなった。末期癌だった。誰がこのような事態を想像し得ただろうか。実際にこのようなことが起こるまで、誰も想定し得なかった。加速度的に悪化し、衰弱していく母を見るのは辛かった。そして僕もあのように死んでいく可能性が高い。癌とは非常にメジャーな病気だから。

今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。いつどこでプリウスが突っ込んでくるか分からないし、通り魔に刺されるか分からないし、地震が起こったり富士山が噴火したり、とにかく何がどうなるか分からない。今後も生きていける保証などはなく、あるのは見込みだけだ。1人の人間の命など、地球規模、宇宙規模からすれば米粒みたいなものでしかない。小学生の頃、アリの手足を捥いだり、水たまりに入れて遊んでいた。一体何匹のアリを殺したか分からないけれど、働きアリの1匹が死んだところで、コロニーとしてはさして何も変わらないのと同じように、1人の人間の命などあってがもなくても変わらない。それでも地球は回っていくし、社会は回っていく。僕が死んだところで、一時的には混乱が起きたとしても、結局は誰かが代わりを務めてくれるだろう。悲しかな、人間とは誰しもが代替的な存在でしかないのだ。

一人で死にたくない、などと言う人もいるけれど、同時に崖から飛び降りて心中とかするのでなければ、死ぬときは誰しもが一人である。例えば息を引き取る瞬間、誰かに手を握っていてもらっていたとしても、死ぬのは自分だけだ。手を握っている人は死なない。死んだらどうなるのか、死ぬときってどんな感じなのかは、死んだことがないから分からないけれど、恐らく眠るのに近い感じなのではないかと推測する。眠くて眠くて、家に帰るやいなや服も着替えずにそのままベッドに倒れ込んで、昏々と12時間とか眠ってしまうときのように。その時間が12時間ではなく、永遠に続く、そして呼吸をしなくなる、二度と目覚めない、それが死。ではないかと。

別れることを考えながら付き合うことはないし、食べ終わることを考えながら食べることもないのに。でも自分がいつか終わることは常に考えてしまう。いつかは絶対に終わる。そういうことを考えながら、シャッターを切れたら良いのかもしれない。その瞬間を永遠にとっておく。しかし、そのデータなりプリントなりも、僕が死ねば全部ゴミにしかならないのだけれど。ネットに上げても、誰も見ないか見なくなるだろう。どうしようもないことだ。

Tポイントはいくら貯めても、あの世へは持っていけない。というか何も持っていけないけれど。

猫を飼うためにマンションでも買うか、どうか。レンズ買うか、くらいのノリで書いてしまっているけど、家って色々面倒。相続人が妻しかいないし、一生賃貸でも良いんじゃないかと思ってるけれど。さぁ、この先どうなるのか。いつ死ぬのか。僕の世界はいつ終わるのか。

完成

α7Sで使うレンズ軍のシステムが完成した。完成なんて大袈裟な言い方だけれど、要は超広角から(中)望遠まで揃ってしまったというだけの話だ。総額がいくらかとか、そんなことは考えてはいけない。趣味だから。最短距離で、最小限の出費でこの結論に辿り着けていたなら、などと考えることは無駄だ。歴史にifはない。自分で実際に試してみないと分からないことも沢山あるし、見えてこないものも沢山ある。例えば、グーグルマップで見るだけではなく、実際に行って歩いてみないことにはその街のことは何も分からないのと同じように。

結局は、一通り全部試してみるしかなかったのだ。何かを得るためには、何かを極めていくためには(全然極まってないけれど)、ある程度身銭を切らなければならないということ。本やネットやSNSなんかを見て知った気になったり、分かった気になっても何も身に付かないし、それでは意味がない。沼から抜け出すためには、沼にどっぷりと浸かり尽くすしかなかったのだ。

思えば、僕の3年ほどの写真歴あるいはカメラ歴というのは、常に試行錯誤の連続だった。今までの全ては、今日の結論に辿り着くまでの実験に次ぐ実験の過程だったということだ。ゆえに一つとして無駄なことはなかった。何もかもが今に繋がっているのだ。

SONY α6000とキットズームレンズから全ては始まった。明るい単焦点を買い、そのトロトロのボケ味にやられる。次にロシア製のオールドレンズの独特の描写にやられる。ヘリオス、ミール、インダスター…そして国産オールドレンズの定番タクマー。オールドレンズはAPS-Cだと中望遠になってしまうのが気になりフォーカルレデューサーなんかも導入したが、結局フルサイズが欲しくなりSONY α7Sへ乗り換える。カールツァイスとの出会い。同時にフィルムカメラにも手を出していた。実家にあったコニカのコンパクトカメラから始まり、破格で手に入れたCanon EOSkiss5がメイン機に。色んなフィルムを試す。トイカメラ、クロスプロセスなんかも試してみる。中判に憧れて二眼レフカメラ、リコーフレックスを買う。高級コンパクト、CONTAX T2なんかも買ってみる。結局リコーフレックスもT2も手放す。Lightroomの導入以降デジタルが楽しくなり、またツァイスの良さを実感しツァイス銘のレンズを色々揃えていく。その写りの綺麗さ、鮮明さに違和感を覚えまたフィルムへ。フィルムはどうしても当たり外れがあり、最高の一枚が撮れるときもあれば、飛んだり潰れたりで残念な写真になってしまうこともあった。「フィルムで撮る」ことに満足してしまっているだけでは?とまたデジタルへ。そしてまたデジタルに違和感を覚え…と周期的にデジタルとフィルムを行ったり来たりするようになる。後にいつでもどこでも持ち出せるコンデジRX100も導入。このカメラでパチパチとスナップを撮るのが楽しくて、やはり自分はデジタルだなと確信する。やがて、相次ぐフィルム銘柄の廃盤や価格高騰などもあって、フィルムからの撤退を決意。ストックしているフィルムがなくなり次第、フィルム関係の機材は売却し、α7SとRX100だけで撮っていくという完全デジタルオンリーのワークフローへ移行することに。フィルムカメラ用に買ったコシナプラナー1.4/50と、とにかく安いヤシコンゾナー2.8/135があまりに良いために再びオールドレンズ再燃。しかし結局MFに疲れ、オールドレンズの不安定さにも嫌気が指し、手堅く撮れる現代のAFレンズがベストという結論に。

僕を惑わせたのは主に2つの要素、フィルムカメラと、オールドレンズだと思っている。現代のレンズはどれもこれも良く写る。重箱の隅をつつけば弱点は色々あるにせよ、いずれも編集によってカバーできる程度の話だ。しかしフィルムカメラやオールドレンズというのはちゃんと写らないというところがスタートラインだ。曖昧さや不確実さというのが味で、それがアートだ、という世界観である。ちゃんと写らないからこそ良い(逆にちゃんと写る、優等生なオールドレンズは使い所がない)。味がある。エモい。そこら辺の要素にやられてしまった。しかしフィルムは種類が減り、高騰し、未来がないのが見えている。そしてオールドレンズとは果てしない沼である。どこかで線引きをしないと、どこかで踏み止まらないとズブズブと沈んでいくだけだ。フィルムっぽさ、オールドレンズっぽさというのは編集で、Lightroomでもある程度再現することはできる。しかし逆はできない。

書いていて気付いたけれど、やはり僕はフィルム写真とかオールドレンズの味とかが好きなのだろうなと思う。しかし、フィルムはとにかくお金がかかる。そもそもフィルムカメラを持ち出すか、デジタルを持ち出すか、と悩むのがストレスであり、両方持っていくとなると荷物が増え過ぎる。また、オールドレンズが無限に増え、機材選定に迷ったりするのは何よりも嫌だ。写真とは選択の芸術であり、汎ゆる場面で何らかの選択を強いられる。何かを選ぶとは、何かを選ばない、もとい捨てることでもある。機材は最小限にして、眼の前の被写体ともっとちゃんと向き合いたい。そういった思いから、フィルムともオールドレンズとも距離を置くことにした(まぁ今持っているヘリオスとかタクマーはたまに使うから置いておくけど、これ以上増やさないということ)。デジタルで撮った写真に敢えてノイズを足していく事にも違和感があったけれど、そこは割り切るしかない。デジタルでフィルムを再現する、で良いじゃないかと。今はそういう結論に至った。

写真とカメラの話は別、カメラのことではなく写真のことを考えよう、とずっと言っておきながら、カメラやレンズのことばかり考えてきたような気がする。しかし写真とは機材失くして撮れないものだから、そこは切っても切れない関係だ。機材のことを考えなくても良くなるくらいに、機材のことについて悩み尽くすというのは必要な期間だったのだと思う。と、散財の言い訳みたいなことを3000字近くも書いてしまった。

写真を始める前の自分は、まさか3年後にこんなことになっているとは思いもよらなかっただろう。カメラやレンズとは則ち、沼である。

幻想

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最近は、去年の冬に買ったCONTAX Sonnar2.8/135を多用している。135mmの圧倒的なボケ、圧縮効果を生かした写真を撮りたくて。
けれど、135mmでMFは被写界深度が浅くて、なかなかきついのでBatis 2.8/135が欲しくなってしまった。というか、もう買っても良いですか…?僕も妻も今が一番若いのだし、どうせ手に入れるのならできる限り早い方が良いだろう。

CONTAX Sonnar2.8/135は比較的ピントの山が見やすいレンズではあると思うけれど、一日中MFで撮っていると神経を使うから疲れる…。写りはやや古めかしい感じ?ヤシコンってみんなこうなのか?ということで、ヤシコンプラナーなんかを買って試してみたくもなったりしていた。けれど、ヤシコンプラナー1.4/50とタクマー1.4/50はほぼ同じレンズ構成で、コーティングやガラスの質を除けばほぼ同じらしい。もっと言えば、50mmF1.4のレンズって大抵ダブルガウス型だからレンズ構成はほぼ同じで、みんな似たり寄ったりなのではないかと思う。つまりは、写りも大体同じような感じになるのではないかと。

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もう、機材頼みだって良いじゃないか。出来る限り良い機材を使って、腕の無さを補う。それも一つの戦略なのではないか。結局のところ、質感や雰囲気というのは編集でいくらでも作れてしまうものなのだし。漸くオールドレンズ神話が打ち砕かれたような感じ。ここへ来て、また一つ先へ進むことができた気がする。フィルムで撮る必要もないし、ヤシコンのレンズで撮る必要もないし、プラナーで撮らなければならない理由なんていうのもどこにもない。そういったものは全て好みの問題でしかないのだ。

オールドレンズはもう全部手放しても良いくらいの気分だ。何を持ち出すか、などと悩むのが何よりも不毛。僕らは機材のことではなく、写真のことで悩むべきだ。できる限り機材は減らして、何を持ち出すか、などといった余計な悩み、迷いをなくしていくべきだ。

ああでなければならない、こうでなければならない、そういった、した覚えのない約束、呪いや思い込みの類など、全て捨ててしまえ。火をつけて。