地方都市の夕景

音楽と写真

意識低い系のまま、生き延びたい。

大学は法学部だったのだけれど、今思えば法律に興味なんて全くなかったし(今もない)、周りの学生みたいに「弁護士になりたい!」とかいう気持ちも微塵も持ち合わせていなかった。法律に興味もなく、弁護士になりたいわけでもない18歳の若者が法学部に入ったらどうなるか。当然、法律の勉強なんて真剣にやるはずがなく、当然の如く落ちぶれた(燃え尽き症候群だったというのもあった)。他の学生達と違って僕には何の目標もなかった。言わば遊ぶために大学に入ったようなもので、毎日、軽音楽部の部室で先輩たちとダラダラしていた(部室の住人たちは留年率が高かった)。何となく日々を過ごしていた。あの時代が一番楽しかったかもしれない。本当に何も考えずに生きることができたのはあの頃の短い時間だけだ。

なぜ法学部にしたのかと言われれば、(自分にとっては)そこが一番入りやすかったからだ。僕は東京に行きたかった。東京に行くには、東京の大学に受かるしかない。あまり裕福な家庭というわけでもないから、できれば学費の安い国公立大学が良い。となると、殆ど選択肢はない。その中で、自分の得意な教科の配点が高く、苦手な教科の配点が低い、つまり受かりやすいと思ったのがその大学の法学部だった。もしそれらの条件を満たしていたのが商学部だったならば商学部にしただろうし、文学部だったならば文学部にしていたと思う。体系的に何かを学びたいと思ったことがない。僕にとって勉強とはテストで点数を取るゲームでしかなかった。英語そのものにも、数学そのものにも、歴史そのものにも何の興味もなかった。もし今大学に行くなら、やはり写真学部かなというところだけれど、写真学部に行って写真についてあれこれ学んだところで、果たして写真が上手くなるのかどうかは謎である。すぐにつまらなくなって、嫌になって辞めてしまうかもしれない。あるいはそれはただの美大芸大コンプレックスみたいなものに過ぎないのかもしれない。隣の芝生は青く見えるものだ。人生とはそんなもんなのかもしれない。結局何を手に入れても、それが当たり前になってしまうと麻痺してしまう。

就職の歳、人材紹介エージェントみたいなところに何度か行ったけれど、意識が高過ぎてついていけなかった。30代までに年収何百万、40代で年収何千万、50代でなんちゃらかんちゃら、みたいなやつ。お前ら正気かよ、と思った。そもそも、そういう人が集まる業種なのかもしれない。仕事が大好き!やりがい!社会貢献!みたいな。自分とは次元が違い過ぎた。結果、何となく受けたところに受かって就職して、色々あって今の職場になった。僕は独立したいとも、そんなに年収が欲しいとも思わなかった。それなりに生活費を稼いで、それなりに暮らしていければそれで良かった。高級ブランド品にも興味はないし、車も持たないし、ギャンブルもしないし、キャバクラにも風俗にも行かないし。カメラやレンズは買うけど。でもそれもPCを新調したのとRX100を買ったのでもう欲しいものがなくなってしまった。最近は服もあまり買わない。

結局のところ、自分の好きなこと、得意なことを仕事にできるか、みたいな話で、好きなこと・得意なことと稼げることが一致している人は良いけれど、そうじゃない人はこうやって生きるしかない。「仕事はきついけど稼げる職場」みたいなところに無理して転職すれば年収は上がるかもしれないが、心身を壊して病院に行く羽目にでもなるとしたら、トータルでどちらが得なのか分からない。

d.hatena.ne.jp

まさにこれ。
僕はハードに働くのには向いていないし、自分の好きなこと・やりたいことというのは全くお金にはならない。どこでどうしていれば良かったのだろう。或いは結局の所こうなる運命だったのか。意識低い系のまま、生き延びたい。80歳くらいまで。80年も生きれば十分でしょう。最近は自殺願望とか希死念慮はないけれど、80まで健康に生きるのは難しいかもしれないな、という気持ちは何となくある。そして何より僕は癌になる可能性が高い。その前に地震で瓦礫に埋もれて死ぬとかもあり得るが。あとは自転車に乗ってる時に交通事故とか。

みんな何をそんなモチベーションにして働いているのか。実はみんな自分と同じようなもので、現代の日本では8時間×週5日働かないと生きていけないから仕方なく働いているだけなのだろうか。結婚して子供ができて住宅ローンで家を買って、となっていくと後戻りができないし、責任とか背負うものが大きくなっていくから仕方なくやっているのか。何もかも嫌になって全部投げ出して逃げたくなったりしないのだろうか。そういう人もいるのかもしれないけれど。意識低い系のまま、生き延びたい。

SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100

SONY デジタルカメラ DSC-RX100 1.0型センサー F1.8レンズ搭載 ブラック Cyber-shot DSC-RX100

深夜にだらだらとネットを見るのが好きだ

f:id:amilamia:20180703000258j:plain

写真やカメラに関すること、PCに関することなど、何か調べ物をしている時もあるし、或いは特にあてもなくネットサーフィンをしているだけの時もある。大抵、後者だけれど。ヘッドフォンで音楽を聴きながら。ほぼ毎晩。

何が直接のきっかけだろうか。恐らく最近よく実家に帰っているから、そのせいなのかもしれないけれど、高校生くらいの時のことを思い出すことが多い。実家にいたのは18歳の時までで、僕が実家を出てから実家は2回引っ越しているから、今の実家は実家であって実家ではないのだけれど…「実家」という単語を使い過ぎて段々意味不明な文章になってきたが、それはさておき、型落ちのノートPC(VAIO)を父親に買ってもらい、実家にネット環境が整ったのは確か高校2年の時だった。もう10数年前のことだけれど、その頃から何も変わってはいない。当時高校生だった僕は夜な夜なノートPCに向かい、インターネットを見たり、オンラインゲームをやったり、MSNメッセンジャーで友人とチャットしたり、はたまた(大きな声では言えないが)ファイル共有ソフトに手を出したり、等、よく夜更かしをしていた。流石に受験の直前は控えていたけれど。

30代になった今では、大抵酒を飲みながらだけれど、やっていることは大体同じだ。相も変わらず、こうして僕は夜な夜なノートPCに向かって、こんな内容のないブログを書いたりなどしている。RAW形式で撮った写真のデジタル現像をしたりもしている、というのはちょっとした進歩かもしれない。そう言えば、なぜか常にノートPCだった。持ち歩くことなんてないのだから、デスクトップでも良かったのに。最初は型落ちのVAIO、大学を卒業してからそれが壊れてしまい、新たに買ったのはASUSの3万円くらいの激安ノートPC。次が親父から譲り受けたMacBook Air、そしてこの前買った中古のMacBook Pro。これで4台目。
ちなみにMacBook Proは突然起動しなくなったり(セーフブートしたら直って、原因も特定できた)、Wi-Fiに繋がらなくなったり(SMCリセットしたら直った)、大丈夫かよ…という感じもあるけれど何とかやっていっている。やっていきましょう。

思えば、インターネットがあったからこそ今の僕がある。公立高校はある程度の遅刻や欠席があっても卒業できる、といった情報は2ch(当時)の大学受験板で得た知識だ。結果、僕はギリギリまで高校の授業をサボることで浪人生並みの勉強時間を捻出し、図書館や予備校の自習室に通い詰めて勉強した結果、志望校に現役合格することができた。ファイル共有ソフトのおかげで色んな音楽を聴くことができたからこそ…否、この話はやめておこう。インターネットを通じて知り合った人も沢山いるし…最近の話では、妻と知り合えたのもインターネットというかSNSがあったからだ。インターネット万歳。ちなみに出会い系アプリとかではなく、ツイッターとインスタグラム。

この前の土曜の夜、妻と食事に出かけて、散歩しながら家に帰ってきたところで猛烈な眠気に襲われ、倒れるように眠ってしまった。眼を覚ましたら1時過ぎで、それから眠れなくなってしまったので、いつものように缶チューハイを飲みながらインターネットを見ていた。外が段々明るくなって来た頃、眠くなってきたので眠ることにした。我ながら、何とも自由な生活だ。大学生の頃を思い出した。大学1年とか2年の頃の夏休みはずっとこんな調子だった。一人で酒を飲みながらだらだらインターネットを見る時間とは、至福の時である。高校生の頃は、夜中の3時とか4時とかまでボンバーマンオンラインをやっていて親に怒られたりしていたな…。でも上京して一人暮らしになってからは自由だった。それは今でも大体同じだ。夜は静かだし、みんな寝ているから他の誰にも邪魔されない。誰かからメールが来ることもないし、電話がかかってくることもない。静謐で平和な世界。永遠に夜が続けば良いのに。みんなは眠り続け、僕は只管だらだらと酒を飲みながらネットをする。でも朝は来てしまう。また一日が始まってしまう。そしてまた仕事に行かなければならない。楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。なんて切ないのだろう。

夜は死んだんだ。いくら呼んでも帰っては来ないんだ。もうあの時間は終わって、君も人生と向き合う時なんだ 。

あっという間に梅雨が開け、7月になったから暦の上でも夏になった。
最近は訳あって毎週末実家へ。カウントダウンは始まってしまった。

連日30度超えの真夏日で、日差しが強いから日傘をさしているのだけれど、風も強いから日傘が壊れそうになる。どうしろというのだ。
夏は好きではない。暑いから。早く涼しくなって欲しい。けどその頃には色々と終わってしまっているのだなと思うと悲しい。
世の中は不公平だし理不尽だ。なんだかよくわからない。事実は小説よりも奇なり。

ああしてればよかったとか、こうしてればよかったとか、そんなこと考えても仕方ないのだけれど。
みんなそれぞれ、自分のベストを尽くして生きましょう。

MacBook Proを買った。

f:id:amilamia:20180623005953j:plain

先日の記事の続きだけれど、色々考えてMacBook Pro mid2012を買うことにした。MacBook Air mid2012からの乗り換え。

amilamia.hateblo.jp

しかし、注文して届いたMBPはいきなりフリーズし、その後もビープ音が出たり、フリーズしたり、応答しなくなったりと、まぁ一言で言えばハズレだった。原因がどこにあるのか分からないが、恐らくハード面でどこかが壊れてしまっている。ということで返品することになった。

このMacBook Pro mid2012という代物、裏蓋を開ければ容易に改造できる最後のモデルなので、メモリを16GにしてHDDをSSDに換装すればそこそこ使えるマシンになるのではないか、という目論見だった。が、如何せん古い中古PCなので、故障も多いのだろうか。というか中古のMacなんて所詮こんなもんなんだろうか…ソフマップなんかにもうちょい在庫があるっぽいからそっちをポチってみるか…否、本当は分かっている。そんな中途半端なことをするくらいなら、大人しく新品のiMacを買った方が早いということを。しかし、新品のMacは高い…ということで、妥協点を探った結果がMacBook Pro mid2012を改造して使う、という選択肢だったのだけれど。これならトータル10万もかからないし。中古で良さげなの出るのを待ってみるか。どうするか。

この件はずっと課題だった。今使っているMacBook Air mid2012は父親から譲り受けたもので、これもこれでもう6年前のPCだ。Sierraがちょっときついようで、冷却ファンの回り具合が激し過ぎるのでちょっと不安になる。何も使っていなくても、起動しただけでメモリを4G近く使いきってしまう。そして、少し前にLightroomがアップデートされてからさらに動作が重くなり、メモリ4Gではまともに動かせなくなってきてしまっていた。そもそもMacBook Airというのは軽さ・薄さが売りで、ネットやメール打つくらいのライトユーザー向けのモバイルPCだから、RAW現像にガシガシ使うことなんて想定されていないのだろうけれど。メモリ8Gだったなら少しは違っただろうか。CPUもかなり非力だ。1.7GHzて。調べていて気づいたけれど、フラッシュストレージも64Gしかなかった。時代遅れにも程がある。
そろそろサポート対象外になるし、いきなり壊れる可能性もある。機械というのは何でも消耗品だし、いつかは壊れる。カメラだってスマホだって掃除機だって冷蔵庫だって、いつかは壊れて買い換える羽目になる。それらと同じだ。できたら長く使いたいのだけれど。

やっぱり新品のiMacかなぁ…Retina4Kディスプレイなんていらんやろ、と思っているけれど、使ってみるとやっぱり良い!となるのかも。CONTAX T2買った時もそうだったけれど、ヤフオクで安いのを買ったら、結局すぐ壊れて修理代がかかってしまったので、多少高くてもお店で整備済みのものを買った方が長い目で見たら得だった、という、つまり安物買いの銭失いは良くない。のだが、いかんせん新品のiMacなんぞ買おうものなら、何やかんやオプション付けると軽く20万くらいになってしまう。なぜなら後からメモリ増設、みたいなことができないので、長く使うためには初めからある程度スペックを盛っておく必要があるから。んー、20万くらい軽くポンと出せるような人生だったら良かったのに。

とか考えているうちに、またもや中古で良さげな個体を見つけたのでポチってみた。懲りずにまたもや、MBP mid2012である。今度の個体はHDDをSSDに換装済み。メモリは8Gだが16Gにするつもり。これで現像が捗るぞ~\(^o^)/しかし、またぶっ壊れブックプロmid2012だったらどうするか…どうするも何も、返品する以外選択肢ないが。そしたらもう中古は諦めて新品のiMac買うか?
とかなんとか考えていたところで、なんと「発送前にチェックしたところ、壊れているようで、起動しません。キャンセルとさせてください」という旨の連絡が。なんだそれ。壊れてるの分かってて送ってこられても困るから、まぁ良かったけれど(ちなみに1件目の業者は、「うちでチェックした感じだと不具合なんて発生しないので正常品です(お前の使い方が悪い、あるいはありもしない嘘を捏ち上げるな)」くらいの感じだったから二度と利用しない)。

さて、やはり新品のiMacかなぁ、しかしやっぱり高いなぁ、うーむ、と唸っていたところでまた良い感じの中古のMBPを発見。今までで一番安い。おまけに3ヶ月保証がつくとまで謳っている。興味本位でポチってみた。

ここまで来て漸く気づいた。これは最早こういう運命なのだ。こうするしかないのだ。つまりは、僕はアタリを引くまで、こうやって状態の良い中古のMBPを探し続けるしかないのだ。そしてメモリを増設し、HDDをSSDに換装して長く使うのだ。そうなる運命であるに違いない。どう考えても、それ以外に選択肢なんてないのだから。であるならば、運命に身を任せよう。何としてでも状態の良い中古品を探し当てよう。ハズレを引いたところで、返品すれば良いのだから、時間と手間はかかるけれどお金はかからない。そのためには、信頼できるところから買う必要はあるが。ヤフオクとかメルカリはダメ。

MBP mid 2012を改造して使うことに拘っているのには理由がいくつかあって、まず、このやり方が今現在考えられる中で最も安く(コスパ良く)ハイスペックなMacを手に入れる方法であるということ、そして、最新のMacを新品で買うと高いし、何より映像出力端子がThunderbolt3というクソ不便な新規格になってしまうので、データ移行するにも外付けディスプレイを使うにも、新しく変換ケーブルなりハブなりを買わなければならない羽目になるから、それが嫌だったのだ。できる限り、今現在のPC周りの環境を変えずに、PCのスペックを上げたかった。それだけだったのだ。可能であるならば、今のPCのメモリだけ16Gにできればそれで良いくらい。しかし現実的にはメモリが基板直付けだから増設不可能で、故にこのような自体に陥っている。

さて、結局MacBook Proの中古を買うのは三度目になってしまったのだけれど、二度ある事は三度ある、ではなく、三度目の正直。今度は普通に動いてくれた。むしろこれが当たり前なのではないかと思うのだけれど…中古のPCなんて所詮はそんなものなのだろうか。どうしても当たり外れがある。ハズレを引いたと思ったら、即返品。即返品できるよう、信頼できる筋から買う。これ鉄則。
半日かけてメモリ交換、SSD換装、リカバリー、データ移行を完了させ、

MacBook Air mid 2012 11-inch
プロセッサ 1.7GHz Intel Core i5
メモリ 4G
ストレージ フラッシュストレージ 64G

MacBook Pro mid 2012 13-inch
プロセッサ 2.5 GHz Intel Core i5
メモリ 16G
ストレージ SSD 500G


と一気にパワーアップした。本体が5万、SSDとメモリが3万くらいだったので約8万。同じくらいのスペックのMacBook Pro(Touch Bar・Touch IDなし、2.3GHz、メモリ16G、SSD512G)を新品で買うと22万強といったところなので、14万くらい得だった。コスパ最強。とはいえ、将来的に最新OSがインストールできなくなるし、改造しているからサポートの対象外になるし、といったデメリットはあるのだけれど。長く使えると良いな〜。今のところ、当たり前だけれど動作サクサクになりかなり快適。時間を金で買ったというところか。ここに辿り着くまでに時間かなり無駄になったけれど。

インスタっぽい写真

この意見と同様に、インスタというSNS、メディア、プラットフォームに固執してしまうと、インスタに最適化された写真しか撮れない、インスタでよく見る感じの写真しか撮れない、延いては写真を撮る目的が「インスタでウケること」になってしまうのではないか、そしてそれは自分の視野や可能性を狭めるのではないか、という危惧から、とりあえず所謂インスタっぽい写真ばかり上げているアカウント(東京カ◯ラ部とかそういうやつ)は全部リムーブして、見ないことにした。インスタにもミュート機能が導入されるらしいが、実装までに時間がかかるようなので、当面はこういった対応で。
追記:ミュート機能が実装されたので、今現在はフォローした上でミュートしている。

そもそもインスタっぽい写真ってなんだろうと思った時に、それはつまりスマホの対角4インチとか5インチとかの(小さい)画面で見た時に見栄えが良い、見やすい、分かりやすい写真、ということになるのだろう。組写真ではなく1枚完結型の写真。彩度高めの派手な色に加工した繁華街。逆光で盛大にフレアが出てる夕焼けの海。写ルンですとかオリンパスペンとかのかわいいカメラを構えた笑顔の女の子。海に半身浸かりながらドライフラワー持ったり電飾巻きつけたりしてる女の子、等々。パッと見で誰が見ても「おっ、良い写真」と思うようなやつ。
そういう写真と、自分の撮りたい写真とが一致しているのなら良いけれど、どうやら僕が撮りたいのはそういう写真とは少し違うようだ。そして、その「僕が撮りたい写真」というのは「写真集」という形にした時に一番映えるのではないかという仮説を立てた。仮説の検証のため、今後は積極的に写真集を作っていきたい。販売とか展示とかするのかは不明だけれど、これは基本的にアナログな物質なので、いいねもつかないし拡散されることもない。フィーチャーもされない。何のために作るのか?勿論、自分のためである。今迄撮り貯めてきた人物写真、スナップ、花、風景、などテーマはいくらでもある。人間が全く出てこない写真集、とかも良いかも。ピントが合ってない写真しかない写真集とか。

芸術とはそもそも競争ではないし、他人と比べるものではないのだけれど、SNSだとどうしてもいいねの数やらフォロワーの数やらフィーチャーやらで競争的な側面が否定できない。それがモチベーションになっていく時もあるけれど、同時に疲れてしまう時もある。何を隠そう、僕もちょっと疲れてきてしまっている。所謂インスタ疲れ。今やそれほどまでにインスタグラムというSNSは強い影響力を持っているのだなとは思う。だからこそ、そこから一旦離れないと自分の写真は深化発展していかないのではないかと思う。